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必ずしも言葉はいらないことに。
よくは覚えてはいないけれど、まだ、幼かったあの頃、私は犬と、ちゃんと会話をしていたような気がする。
それがどんな会話だったかは、まるで、覚えていない。記憶が知られてはいけない秘密のように、しっかりと封印されてるみたいで、まったく蘇っては来ないのだ。
別に今、ビールを飲みすぎて酔っ払ってるわけでもないし、頭がおかしくなったわけでもない。でも、確かにあの頃、犬と会話していたような気がする。どうしてそう思うんだろう?自分のことなのによくわからない。
犬が好きな人って必ず犬に言葉をかける。犬は当然、人間の言葉がわかるわけじゃない。冷静に考えれば、まるで意味のないことだ。でも、犬に向って話しかけてる。あれってやっぱり、ひとつの会話の形なのだろう。
話しかけてその気持ちが、相手から自分に帰ってくるから、また人は話し掛ける。気持ちが帰ってこなければ、人は話し掛けることは、たぶんない。
人は生まれたばかりの赤ちゃんにだって話しかける。亡くなってしまった大切な人の遺影に向っても話しかける。遠く離れてしまった恋人の写真にさえも話しかける。微笑みながら、そして、泣きながら。
話しかけても、当然そこに言葉は返って来ることはない。でも、人は話しかけてる。それは気持ちがちゃんと相手に伝わって、そして、帰ってくるからなのだろう。その時、人はいつしか言葉や声に頼らずに、何か見えない、まだ知らない力を使って、ちゃんと会話しているのだと思う。
声だけが、その文字だけが、気持を伝えるツールとは限らない。
「心の会話」っていうと、なんだか真夜中に作った詩のようで、とても照れてしまうけれど、でも、人はいつしかそういうものを、息をするみたいに気づきもしないで、ただ、してきたのだと思う。
私たちの日常に氾濫するような文字や映像の情報の渦。それはすっかり見慣れてしまった確かな異常だ。今はそれを得ることよりも、捨てるほうに時間をかけてる。数え切れないメールの言葉やその文字だけに頼らないで、今、もう一度だけ、心、静かに見つめてみたら。
そこにはどんな見えない気持ちが、この心に伝わってくるのだろう。
誰もがみんな幼い頃、犬や言葉を持たないものと、心の会話をしていたのだと思う。でも、みんないつも忙しくて、それがうまく出来なくなった。
それでもきっと、あの頃の夢を
私たちはこうして追いつづけている。
何度も、何度でも。
そうしていつしか気づけばいいんだ。
必ずしも言葉はいらないことに。
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