「生きる心地」の探求
僕は100年前の古物たちと生活しながら
「生きる心地」を探求している。
ああ、あついお茶がおいしいなぁ。
ああ、ひなたぼっこは癒されるなぁ。
ああ、炊きたてのごはんがおいしいなぁ。
ああ、あったかいお風呂がきもちいいなぁ。
ああ、干したてのお布団がふかふかだなぁ。
日常生活の中で、
『生きているなぁ』『心地よいなぁ』
と感じる時がある。
そんな「生きる心地」のする瞬間を、
僕は心から味わっている。
そもそも、
心地よさとは何なのか。
心地よい暮らしとはどんなものか。
生きているとはどういうことか。
それらを探求していて感じるのは、100年前の古道具たちが「生きる心地」への感度を高めてくれるということだ。
「手間暇」を愛そう
現代の生活において、ほとんどの手間暇は省略されている。たとえば、部屋の中で「寒い」と感じた時、ピッとスイッチを押せばエアコンが部屋を瞬時に温めてくれる。その間に、ピッとスイッチを押せば炊飯器がお米を炊いておいてくれる。その間に、ピッとスイッチを押せば電子レンジでおかずが出来上がる。その間に、ピッとスイッチを押せば温かいお風呂が沸いている。食べた後の洗い物は食洗機におまかせ。
ピッとボタンひとつであらゆる手間暇が省かれる。現代の暮らしはとても便利だ。
その意味で、僕の生活はとても不便だ。お湯を注いだゆたんぽで体を温めるには時間がかかる。飯盒でご飯を炊くには、こまめに火の番をして調整する必要がある。古木のまな板で食材をさばき、鉄のフライパンでおかずを炒めるため、調理器具のお手入れも必要だ。
暖をとろうにも、お腹を満たそうにも、手間暇がかかる。しかし、この手間暇こそが愛おしいと僕は感じている。
幸せの感度
スイッチひとつでいつのまにか炊けたお米よりも、火の様子をみながら大切に炊きあげたお米の味は格別だ。いつのまにかガンガンに温まるエアコンの馬力よりも、お布団の中で足先にじんわりと伝わるゆたんぽのぬくもりは格別だ。
たしかに、古道具を用いた生活は便利ではない。「おいしい」や「あたたかい」と感じる瞬間には手間暇をかけないと辿り着けない。目的を達成するまでに、遠回りをする必要がある。しかし、現代機器を用いた近道では感じられないことがある。
遠回りでも、すこし手間暇をかけて工夫することで、僕は僕の生活に愛おしさを感じるようになった。
お米を炊くという行為や、身体を温めるという行為そのものを愉しみ、それが一日の光景として心に残るとすれば、幸せの感度はより豊かになるのではないだろうかと思うのだ。
生きていると感じる瞬間
古道具を用いて生活するようになって、僕の日常は以前よりも不便になった。でも、だからこそ日常の幸せに敏感になった。お腹が空いたときに「おいしい」と感じられること、寒いときに「あたたかい」と感じられること、ただそれだけでとても幸せなことなんだと、自分の生活を味わうようになった。そうして、"僕は生きているんだ"と実感する機会が増えた。
なぜ、あなたは100年前の古物と生活するのか?と問われたら、僕は「生きる心地」をより深く感じるためだと答えるだろう。
もちろん、僕がエアコン様の力を頼る時もある。まさか、毎日ドラム缶風呂を焚き火で沸かしているわけでもない。あくまで健康的な選択のもと、自分の心地において手間暇を愛し、自らの幸せの感度をすこしだけ高めてみようとしているにすぎない。日々、僕にとって幸せとはなにか実験をしているようなものだ。
100年前の古物と生活しながら、
今を生きている実感が湧いてくる
「生きる心地」のする瞬間を、
僕は毎日集め、愛でている。