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シンギュラリティを超えた社会

明治維新によって、幕藩体制は崩壊し、職業としての武士は無くなり、さまざまなところで変化が起きた。武士は解体され一部機能は軍人という形で残ったが、生まれながらの身分というものが大きく崩れ、新しい形の社会が動きはじめた。そして、この変化は、過去に戻ることなく進んでいった。

変化というのはある一定のラインがあって、そこを超えるともう元に戻ることがない。つまり変化には、後戻りできない特異点(シンギュラリティ)がある。明治維新は、そのシンギュラリティを一気に超える現象だったのだと言える。

そしてシンギュラリティを超えるかどうかは、社会が本質的にその変化を望んでいるのかどうかで決まる。

現代社会の本質的なトレンドは、人口減少だ。

生物の生き残りには、r戦略とK戦略というものがある。r戦略というのは、子供を多く残す方が生き残ることができるという考え。人間社会で例えるなら、単純労働が社会の中心である時代は、多くの子供がいるほうが生活が安定するとみなすことができる。そうなると多産である方が生き残りには有利だ。しかし、現代社会は、よりよい生活のために複雑な技能や知識が必要。だから子どもたちに知識を与え、育成をしようとすると、当然ながら長い時間と手間とコストがかかる。なので、たくさんの子供を育成していくより、限られた子供に知識を与え、しっかりと育成していくほうが生き残る可能性が高まる。これがK戦略という生き残り方法だ。

日本は戦後の復興から高度経済成長期を迎え、製造業を中心に拡大が行われていった。大量生産・大量消費の時代は、同じようなものを作り同じようなものを使う時代だった。そのような時代には、同じようなことをする人が多くいた方が有利だったのだと言える。まさしくr戦略の時代。そのため多産を選択し、人口はどんどん増えた。

しかし物が充足し、生活が安定しはじめると、同じようなものは飽きられ、デザインやアイディアが重要な時代になった。そのような時代は、顧客をより深く分析し、機能を工夫し、サービスを充実していかなければならず、求められる技能や知識は、より深くなったのだと言える。

つまり社会における労働の重要性は、単純なものから複雑で高度なものに変化した。そうなると戦略的にはK戦略に移行せざるを得なくなり、結果的に人口は減少する。

こういう文脈で紐解くと、人口減少というのは単純に人が減るというだけの社会ではなく、高い技能と知識を必要とする社会であり、そのために一人一人を大切に育てていく時代だ。

だから、全体に合わせるのではなく、個性を大切にし、単調であるより多様であることを許容する社会なのだと言える。

しかしこの社会には、そういう社会の変化に逆行した仕組みが存在する。没個性なものの典型は、儀礼的な出来事であり、虚飾で包まれた出来事であり。そして個性を拒否する様々な出来事。単純な例で言うと朝晩の通勤ラッシュ、サラリーマンのスーツ。(そして学校教育。学校教育が、没個性の象徴だなんて悲しいことだけど、そういう側面がまだまだ相当根強い。)

そうした様々なものが、この時代の空気に合わなくなっている。人間という生物がK戦略に移行した以上、そうしたものに対する根本的な拒絶感が、社会全体に根強くあるのだと思う。だから、今起きている様々な変化は、表面的にはリモートワークへの移行だったり、オフィスという働き方を選択しないことだったり、郊外で家族と暮らしながら最先端のビジネスに携わることだったりなのだけど、それらは全て本質的に人が望んでいた姿を一気に取り戻している最中のひとつの側面なのだとも言える。

だからこそ、COVID-19が引き金を引いたこの状況は、人間が本質的に望んでいた姿を一気に引き寄せ、後戻りのできない地点、シンギュラリティを一気に超えてしまったのではないかと思うのだ。

以前にも紹介したJR西日本 長谷川社長の年頭挨拶

コロナ禍による社会行動変容は、少子高齢化やデジタル化の進展で徐々に表れると思われていた将来の姿が前倒しで現れたものであって、当社グループが直面しているお客様のご利用の変化は今後も元の形には戻らないことを覚悟しなければならないと考えています。

人間が、本当に望んでいる姿は、まだ誰にもわかっていない。だから、この変化がどこに向かうのかは誰にもわからない。しかし、もう以前と同じ状況には戻らない。

そして、まだ誰にもわかっていない未来にぼくたちは進んでいるだということは、全ての人に限りない可能性があるのだとも言える。

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