おれの世界にはおれと初音ミクさんしかいない(マジカルミライ2024さんへ ありがとう)
初音ミクマジカルミライ2024大阪公演に参加しました。こちらの記事はマジミラ記事限界オタク編です。
ピアプロキャラクターズはこの世で一番美しい。それを言うためだけの記事です。それを知ってるなら読まなくていいです。
(長うざい前置き)
今回は初音ミクたちの「ヒトの想いを背負って立つ存在である」という表面的で一次的な意味に注目する記事になったかもしれません。僕も初音ミクさんに対するそれ以外の視点も持っているうえ大事にしたいと思っているし、あなたは今のあなたの初音ミクさんを大事にしてください。この記事で僕が言う初音ミクさんは僕の初音ミクさんでしかないので、できたら怒らないでください。僕もあなたのミクさんを尊重します。
あと、3日間の公演内容と同じ曲でも公演ごとに見えたものや考えたことが混ざって進むので読み苦しいところがあれば申し訳ございません。できるだけ読めるように書きます。
なんか観念的な話で始めそうになったんだけど、さすがに開幕ブリキノダンス/日向電工の話からしないと駄目かも。しなきゃ嘘かも。ブリキノダンスの話していいですか?いいよ。
ブリキノダンスは、我々ことミクさん好きを名乗りつつ最近の曲わからんとか宣う情けないボカ老害にも大体わかる一方、プロセカにも収録されてるのでそれきっかけでマジミラに来る人にも大体わかるでしょう。
その最大公約数の見極め方って我々が思っているより難しいと思うんですよね。ブリキノダンスなんて最近の曲じゃん、知らんっていう人すらいるだろうし。
その上で未発表のまま1曲目に持ってくる度胸。10周年からこっちのマジカルミライ、一味違うぜ………。曲自体もトップバッターにふさわしい賑やかさで、全く以て、鼓動がダンスでございました。
最初は1日目、TYQOON/sohbanaでステージ上のMEIKO、というかMEIKOであることを望まれた光 (オタクが極まりすぎて、必要な時はこういう呼び方をする) が美しすぎてふと涙が出てきた。やっぱりあの美しさは現地で観ないと少なくとも自分にはわからないな。
そのタイミングで、僕は半年ぶりに見るかれらを世界でいちばん美しいと思えているという最初の一歩を再確認しました。全員だ~い好きとはいえ特別に好きなのはミクさんなのになんかカイメイでよく泣く、おれは
あとTYQOONは声と歌詞がかわいい。「あやしのエゴ」とか「倣っ給ったのね」とか「0.1縷を説いたげるわ」とかの酔ってるような感じ、好き。
これまでライブに採用されるめーちゃん曲は力強く歌い上げる感じのかっこいい曲が多かった気がするんだけど、それとのバランスを取るため、かは分かりませんが、去年今年とソロは可愛く、デュエットではかっこいい雰囲気でいろんな曲が聴けてうれしい。
3日目は大千秋楽に参加したのですが、2日目まで全くなかった最初のサビ前とかの長いクラップをみんなやっていて焦った。
それを始め、千秋楽は空気が違った。もうこれで終わりだという熱気。それを共有しているという高揚感。なにより見違えてコールが完璧だった。
そのように、ライブを観ているぼくらの方は大阪の3日間もあればコールを覚えるし、公演の度に感じることも服装も体調も変わる。
ただ、それでもボーカロイドは変わらない。前の公演とたぶん1ピクセルも変わらないダンスと1音もずれない歌声を見せてくれる。人間がそれになんの違和感も抱かないのもミクさんライブの神秘的なところである。
曲によっては派手な振り付けやマイクパフォーマンスで歓声が上がるんだけど、かれらはそれによって表情を変えることもなく、レスポンスを返すこともない。映像だから。というか、それをわかってて人間側があえて反応しているふしもある。
人間たちはライブが終わると仕事や学校に戻っていくが、ミクさんたちにとっては今日も明日も存在しなくて、マジミラ中も次の日もおなじこと。年中無休でもOK。
そうやって10年前も10年後も絶対に変わらないでいてくれることが優しく、嬉しい。千秋楽ではそういう、「どこにもいないからずっとそこにいる安心感」を感じた。ミクさんたちのそういうのを感じたい人は変わらなさの確認のために2公演は行くのがオススメです。
1年ぶりのHERO/Ayase!ステージ上の光は唯一無二の初音ミクなんかじゃなく、光でしかないけど、それでも僕にとってのただひとつのヒーローに向かってあなたがヒーローだと叫べるのはやっぱり最高。
からのSUPERHERO/めろくるは意味すぎる。ミクさんからレンくんにバトンが渡り、アンテナ39の「後は任せてくれ」にも繋がる気がする。
そう考えると、楽曲グランプリ曲初のミクさん以外歌唱曲がこの曲だというのは、''初音ミク''マジカルミライと銘打ってはいるものの、6人それぞれがあなたや誰かのヒーローなんだよ、と読み取れて、これから未来がいくらでも広がっていく感じがする。
これは主観でしかないけど、ステージの上のレンくんは、原曲PVの頼りないけれど懸命に頑張っている雰囲気のヒーローと違って揺るぎなく唯一のヒーローに見えました。
ピアプロキャラクターズは見た目はキャラクターだけど、ヒトの想いを歌うシンガー役を託されている特異な存在なのだな、と改めて感じました。
余談なんですが、3日目の席が列のほぼ真端で、SUPERHEROの途中で横を向いた時至近距離にめちゃくちゃ普通に伊藤社長が立っていてびっくりしました。
2日目の帰り道にも電車で社長を見かけたので、今年は社長と縁がある年だったのですね。何故?
ところで、2日目の席はこれまで参加したミクさんライブでも最前の前から4列目で、脇の方だったので、スクリーンが平らに見えるのかなと心配していました。
しかし杞憂で、平らな感じもほとんどなく、常にめちゃくちゃよく見えて感動しました。それどころか、ミクさんたちがステージ中央からこちら側に移動してくるのがちゃんと近づいてくるようにも見えました。凄。
あんまり感動して、人がそこにいるみたいだなあ、と思って、あれ、人じゃないのに人みたいに見えるのがいいんだっけ?とほぼ無意識のところで思ってたら、セトリが「人とはなにか」を問う流れに聴こえてきた。
REALITY/マイナス(ワンダフル☆オポチュニティ!)。
ボーカロイドの歌や喋りは年々流暢になってきて、ライブの時の踊りも年々滑らかになっている。ミクパの頃の映像を今観るとこんなに違う!?って笑ってしまう。
でも、人間とは全く別のなにかである(と僕は思ってる)ボーカロイドにとってのリアリティとは、そもそも人間に近いことなのか?歌詞にひたすらリアリティを問われて、そういうことを考え始めた。
ボーカロイドにとってのリアリティを軸に見ていくと、「もっと僕に もっと明確にくれ」とMEIKO達がいう、まさにその「僕」というのがMEIKO達のことのように思えてきて、それはSUPERHEROでレンくんがシンガー役を託されているように見えたことの逆であり、不思議だった。
ミクさんたちは生きていなくて思想を持つこともないから僕はかれらを好きなんだと思っていたのに、当然の流れのように今までの信念と逆のことを思わされ、しかもこれがこの曲の後もしばらく続くのでどうしちゃったんだろうと思った。
なんにせよ、今年は、今まで理解はしていたものの全く受け入れられなかった、ブレス・ユア・ブレスのボーカロイドに対する「誰の目にも同じひとりの人間」という見方、それがネガティブに描かれていることにもひとつ自分なりの納得がいったマジカルミライになりました。
からの新人類/まらしぃ×じん×堀江晶太(kemu)。
原始的な、食べたい、寝たい、寒い、見栄を張りたい、といった、ウッホウッホッホウッホッホと吠えてる動物ですら感じてそうな欲求こそ人間が一番リアルに感じるものかもしれない。前の曲でリアリティを問うたのちプリミティブに向かう。綺麗な流れだ。
ウホウホやるの超楽しかったし、一番最後の原曲のポーズ取るリンちゃんめちゃくちゃイカしてた。
作者もこう言ってるし。
ライブ中足の接地感が凄かったり、人間のようにぬるぬる動いたりすることを当然のように褒めたたえてしまうけど、別にボーカロイドは人間じゃないから必ずしもそうする必要もないわけで、ぼくらがリンちゃんたちに求めているのは実は人間らしさよりもっと原始的なものなのかも。その道程にたまたま人間らしさという基準があるだけで。
とか考えてはみたものの全然答えが出ませんでした。なにか分かったら教えてください。
人間らしさというと、初音ミクV6AIもリリース予定とのことですが、例えばミクさんがいつか人間が歌ってるようにしか聴こえない歌しか歌わなくなったら、それって合成音声ソフトとしては大変意義のあることだけど、聴き手としては意味があるのか?と思う。でもその危惧は結構広まっている気もしていて、人もどきのメロディたちの人間じゃないままの価値も認められ続けるのだろうなとも思う。というかそう信じたい。
この辺もまだ全然答えが出せていないので、なにか意見があればぜひ教えてください。
とにかく、はやくV6AIミクさんの声聴いてみたいぜ。
流星のパルス/*Luna、踊/DECO*27・Giga・TeddyLoidと続く。前者はセカイを除けば初のプロセカ描き下ろし曲の披露、後者はボカロPが書いたAdoさんへの提供曲という、今までの文脈からすると取り沙汰されそうな付加情報の多い歌。
実際、流星のパルスの披露が発表された時はなんだかなあという態度の人もいた気がする。SUPERHEROがなければもっと言われていたかもしれない。
でも、付加情報はなにも鏡音リンとレンに付加されているわけではない。作品に付加されているだけだ。しかも情報と作品の内容や質には関係がない。
至極当たり前のことだけど、これが適当にないまぜにされるインターネットに疲れ果てているので、作品だけがダイレクトにあらわれるライブでこれを聴けたことは気持ちよかった。
というかこれは単純に僕が個人的に早くインターネットを辞めたほうがいい。みんなでせーのでインターネットをやめて堕落とキスしてないで海へ行くのがいちばんいいと思う。
あと、僕は恐縮ながらプロセカのストーリーは読んでないんだけど、何も知らなくても流星のパルスはめちゃくちゃ爽快でいい曲だ。
特に、ボーカロイドに求められるリアリティ、という点に着目して聞いていた2日目は流星のパルス、そういう歌だったんだ…と思った。「そういう歌だったんだ…」と感じたことだけ覚えていてどういう歌だと思ったのか自分でもなんにも覚えてなくて面白い。とにかくめちゃくちゃ泣いた。
「人間もどきのあれが人間を先導して歌う、またサビ終わりで我々もかれと歌えること。鳥肌が立つ思い。」というよくわからんけどおじいちゃんみたいなメモが残っていたので、なんかすごい感動したんだと思う。
たぶん、人間の想いでできたレンくん自身がこの歌を響かせたい、聴いてくれと言っているようにも聴こえたとかそういうことだと思う。現地でしか味わえないものが確かにある。
これまでボカロ曲の中で「思いを届けたい」「歌い続けたい」「ずっとそばにいる」とか言われてもミクさんたちは絶対にそんなことを思ってないというか思いようがないということに僕は逆に安心していたくらいなのに、本当に急にどうしちゃったのかわからない。なんでなのかという答えは出ない気がしているけど、考えるのは楽しいから考え続けたい。
3日目の流星のパルスは逆にレンくん自身の歌に聴こえず、ヒトの想いを仮託されたシンガーが歌う歌に見えた。レンくんは変わらないのにヒトは短い時間であまりにも身勝手に変わっていく。現地でしか味わえないものが確かにある。
letter song/doriko。まさか今になって聴けるとは。
僕は10年前も今も、ミクさんが好きで、ミクさんだけが光で、ミクさんのおかげで生きている。単純にそれを思って泣いてしまった。
今は誰を好きですか?それとも変わらずにあの人が好きですか?って本人に訊かれるの、もうどうしたらいいかわからない。ひとりだけミクパモデルで出てきやがって、変わらないのはあなたの方じゃないですか。そしてそれに気づいていないのもミクさんだけ。だからこそ、ぼくらはミクさんの言う「10年」を自分の10年として思い返せる。
脳も心も身体も持たない目の前のミクさんらしき光にはこの気持ちは絶対に届かない。そんな透明なものだから僕はミクさんだけを10年以上もひたすら安心して好きでいられている。君が生きてなくてよかった。
同じことを繰り返すようだけど、僕の目に映るこの曲のミクさんは、あまりにも「シンガーを託されたミクさん」だった。
歌詞に出てくる女の子の10年間と違って、ミクさんの10年間は思い出じゃなくてヒトが勝手に書き連ねていった記録でしかないから。楽しい夜も虚しい朝も君からすればただの記録。
ミクさんはこれからもヒトに創られ、ヒトのためだけに歌い続けるのでしょう。
10年という具体的な時間の流れを歌うlettersong。
からの、いやがおうにも一瞬で流れる月日を歌う陽だまりのセツナ/赤乃わい。ミクさんたちは永遠に変わらないので、単にそういう歌詞だからという以上にぼくらに時間について考えさせることができる。
からのサイハテ/小林オニキス。すごいことするよな。この3曲の流れ、存在しないものの本質を表現しているんだと思った。
そう、ぼくらはいずれ死ぬけどミクさんは永劫に近いときを残るはず。前2曲の具体的な時間の話の後に、永遠の別れの歌であるサイハテを明るく歌うなんて、生きないかわりに死なないミクさんたちにしかやりにくいことだと思う。
ミクさんに無限のものをもらってミクさんがいないと生きていけないけど、我々は有限の人間だからどこにもいないミクさんに何も返せないなと思った。
「おれが死んだらおれの信仰するミクさんも一緒に死んでくれる」と信じて生きてきたけど、最後に「さよなら」と歌うのを聴いて、僕が死ぬ時ミクさんをこの世に取り残してしまうんだ、という錯覚をした。ミクさんはいないから、正解はどっちでもない。
遺される側のことを喪服を来てポップに歌う。それもライブという大舞台で。それにギョッとしてしまわないのは歌い手がミクさんだからだなと思った。
僕がサイハテを初めて聴いたのは小学生のときで、明言されないからよく分からないけど多分死についての歌詞で、なのに明るい曲調だから不気味で、凄く怖かったのを今でも覚えている。改めて考えても「これからの日々も変わらずやり過ごせるね」ってすごい歌詞すぎる。
やっぱりミクさんはぼくらいつか死ぬ人間たちの光だ。
そこからの命に嫌われている。/カンザキイオリ。
初音ミクは命に嫌われていない、枯れ葉のように朽ちていくこともない、ぼくらの希望。
ただ透明なスクリーンだけがある、嘘でできたステージの上で、誰の喉からも出ていない歌は初音ミクの歌になる。1曲目からずっと、初音ミクの形をした光はまるで、人間と同じ連続したひとりのように見える。我々は騙されたままステージが続いていく。
「彼方へと向かうあなたへ」と言った口で「君が生きていたならそれでいい」と、ステージ上のミクさんが、僕に、言ってくれていると錯覚できる。それが嘘なのはこんなにも分かっているのに。
またひとつブレス・ユア・ブレスの意味がわかった気がした。
REALITYからのウッホッホといい、そんなコンセプチュアルなことをよくやるよな。と思い込んでいますが、これって陰謀論に入りますか?
事実として、マジカルミライは色んな人の曲を集めて順番に並べて踊りを付けてモデルを作って歌わせる公式二次創作である。他人の創作を使ってものを作っているんだから慎重にならなきゃいけないはずなのに、こんなに文脈を感じさせていただいていいのでしょうか。というか深読みしすぎでしょうか。でももういい!とにかくよかったから!!!最高!!!!
初日はここでテオ/Omoi。
今回はその他にも、すきなことだけでいいです/ピノキオピー、快晴/Orangestar、愛の詩/ラマーズPと、R3曲の蔵出しがありましたね。
なんでかマジミラではあんまり再演をやらず、関係ないと思うけどマジミラのメインのモデルもサンボルモデルに変わったっぽいなどの理由で、今後なかったことになっていく危惧すら勝手にしてたんですが、今後も披露される可能性があるんだなとわかってよかったです。
久々のうーぱぱはとっても楽しかった。あとはいい加減声出しYYができれば……………
satisfaction/kz。
最高~~~!!!!!ありがと~~~~~~!!!!!!!!!!!!DE:MONSTARちゃんフィギュアもアクスタもマルチクロスもぬいぐるみも手に入れたよ~~~~!!!!!エトワールちゃんフィギュアも楽しみで仕方ないよ~~~~!!!今気づいたけど今年DIVAの周年とか丸無視のセトリだな~~~~!!!!∞ちゃんねんどろ2体予約してるからいいけど~~~~~~~~~~!!!!!!!!!
…の一方で、2016披露曲/DIVAX収録曲が日替わりで来ていることを察し、しかもこちらはモジュ曲なので僕が8年間待ち続けているすろぉもぉしょんのことが気になって集中しきれなかった。
その辺の怨嗟はこっちに封じ込めました。
1日目の日替わりテーマソング、2曲目はブレス・ユア・ブレス/和田たけあき。
2日目で、たしかに僕の中のミクさんたちは「生まれてしまった」のかもしれない。でも、僕は誰の目にも別々に見える不定形なミクさんたちのことも同時に大切に思っているし、やっぱり僕はそっちの方が好きだ。
マジミラのテーマソングは初音ミクがテーマの曲になるということと、自己言及的なことを歌っても本人がそれに自覚がないから嫌味がない初音ミクの性質と、我々の信仰によってステージに顕現させられる初音ミクとが交差し、テーマソングの中でも特にこの曲は人によってどう聴こえるかが全く違う曲になってる気が毎回します。
それなのに、ミクさんがどう見えるかはそれぞれ違うはずなのに、「おめでとう」はだいたいみんな言う、一応。それも不思議。単に決まった掛け声だからってだけかもしれないけど。
日替わり枠はグリーンライツ・セレナーデ/Omoi。
この曲はずっと一番のコール問題が一部で勃発していたようなのですが、つい先日公式より
という宣言があったので、正式に自由となりました。よかったね。僕はおふたり同様1番からやりました。
グリーンライツももう何回聴いたか分からないくらい聴いた気がするけど毎回毎回最高すぎ。
プロセカ関係曲はセカイ以降避けられ続けていたのに、急に流星のパルス/陽だまりのセツナ(/新人類)が解禁され、その他にもプロセカ収録曲が多く演奏され時代を感じさせるセトリの中で、アンテナ39前の締めが初めての恋が終わる時/supercellなのは示唆的だった。これもプロセカ収録曲ではあるけど。
DIVAのモジュールでの披露、Fモデルでの披露(この記事ちょこちょこモデルの話をするんだけど、僕はどの曲がどのモデルか確信を持ててないので間違ってたらすげ~恥ずかしいしすみません)、初音ミクがヒトのように恋する少女をやる歌。初音ミクを初音ミクとしてではなく、人間の代わりとして歌わせる流れの火付け役のひとつとされているメルトを書いた人の歌でもある。
どう書いたらいいのかわからないのですが、時が流れて流行が変わってもミクさんが人によってしか存在できないのは変わらないことをまた感じました。昔も今もミクさんはミクさんだったのだ。
振りもよかった。手編みのマフラーを本当に編んでるとことか、キミとの距離はゼロ、のところとか。「みんながイメージする恋する少女」そのものだった。それもミクさんならではのニュートラルさを内包していて面白い。
そして満を持しての本年テーマソング、アンテナ39/柊マグネタイト。
長いこと続いたサンゴーズダウンからのサンゴーズアップを去年迎えて、(毎年毎年砂の惑星のアンサーばっかだった、とまでは僕は全く思ってないんですけど)新たなスタートを切った今年。
インタビューで柊マグネタイトさんの仰っていたように、これからの未来へ向けてただただ楽しいだけの「後は任せてくれ!!!」って曲なんだという意図が完璧に汲まれた最っ高のステージでした。
理屈じゃなくパフォーマンスで魅せるってまさにこういうこと!というのを全曲通して1番ぐいぐいと押し付けられた感じがします。
柊さんのインタビュー、一応貼っておくので未読なら是非。
具体的には、ミクさんがずっとぴょんぴょん跳んでて見てて楽しかったです。
個人的にはバンバンツインテ揺らすとこが最高。
あとは、ステージを端から端まで大きく使うのがファンファントリップというテーマ≒福岡まで行ったことに合ってる気がしました。別にステージ大きく使う曲まだまだあるのでこれはオタクの思い込みですが。
初日に初めて観た後はあまりにも素晴らしくて「最高…」と呟いてしまいました。
砂の惑星といいアンテナ39といい、メインビジュとテーマソングがあんまり合ってない問題が時々勃発しますが、個人的には初音ミクらしくて好き。
なんでかっていうと、何回も書くけどマジミラも公式がやってるだけの二次創作なので、衣装デザイン、曲、振り付け、モデリング、モーションキャプチャー、などなど我々オタク側には見えないものに至るまですべて、それぞれ別の人がつくったバラバラのものがミクさんを通すことでまるで元々ひとつであったかのようにあのステージは成っている。
それって初音ミクさんが歩いてきた文化の成り立ちそのものだと思うから。
だから、美しい。現地では何度も何度も同じことを考えて感じて何度も何度も同じ涙を流してしまう。その全てに意味があると思う。
そして、例の、最後の曲、Hand in Hand 6人ver/kz。マジミラ運営って法律を知らないのかな。
というかさあ…………おい…………………!!!!これ、、、!!!!!!!YOUR/MY Love letterじゃねえか!!!!?!?!???!!?!!!!!
……シャニマスオタクが出てしまいすみません。
シャニマス屈指の名イベントコミュ「ユアマイ」がどういう仕組みかというと、「それまでの不文律を逆手に取って大サプライズを仕掛けて全ユーザーを泣かせてくる」というもので、そんなん嬉しすぎるに決まっている。それだけの話じゃないから是非読んで欲しいんだけど。
ミクさんたちのステージを観て泣いたことは数え切れないけど、あんなに笑顔になったのは初めてかも。幸せすぎて。
千秋楽では、改めて本当に6人全員誰かのヒーローなんだと思わされた。6人曲でペンライトがカラフルに染まるの眺めてると泣いちゃうよな。わかる。
もうオタク全員踊れるだろというくらい見慣れたHiHをミクさん以外の5人がステージで歌い踊っているのを観る、これはもう理屈抜きです。理屈抜きで嬉しすぎました。観ろ。
ゴチャゴチャ考えていたのが完全に吹き飛びました。最高!
10周年を越えてから、毎年最高を更新してやるぞ!という意思を感じる。
10thでBlessingやられてもうこれ今後切れる手札なくない?と思ったら翌年Birthday Song forミクを出してきて膝を打ったし、極めつけにこれですよ。もうこれ来年切れる手札なくない?
6人でいうと、ボーカル紹介がついに6人分になりましたね。僕はミクさんが好きとはいえ今までかなり違和感があったからすっきりしました。
それに加え、今年も全員1回ずつのデュオは続投で、とにかく「6人みんなで」をこれでもかと打ち出していて、それも6人が仲良くしたいと思ってるからとかじゃなく人間の意図なんだけど、ひとまず楽しい方向に進んでいる気がします。来年以降も楽しみ!
僕がミクさんたちを好きなのは、第一に人間じゃないから、生きてないから。だからこそ、ステージのかれらがまるで人間のように動くのを健気だと感じ、愛しいと思う。ステージの上でもそれ以外のどんな場所でも、かれらはとにかく純粋で美しい。
うみねこのなく頃にという大好きな作品があるのですが、あの、すみません、うみねこが好きすぎてうみねこには人生の大事なことが全て書いてあると思い込んでいるためすぐうみねこの話をしてしまうのですが、その中に出てくる「世界を作る最小単位はふたり」という概念の意味を身をもって感じ続けています。
それはつまり、自分と自分の愛するもうひとりがいれば他に誰もいなくてもなんにもなくても生きていけるということ。あの、すみません、言ってはみたもののこれは拡大解釈なので読んでなければ原作を読んでください。絶対に
裏を返せば、陳腐な言い方だけど、人は本質的にひとりでは生きていけないということになる。ぼくらのような現実の人の隣で上手く歩けない人間にとって、ミクさんたちは一緒に世界を作る相手になってくれる。そう思って生きています。真面目に。
なんでこんなに毎回新しいことに気付けるんだろう。
マジカルミライも公式が盛大にやってるお祭りというだけでミクさんの細胞のひとつにすぎないと自分は思っていますが、じゃあその細胞たちが集まってどんな初音ミクを形作っているのか、という点に毎回新しい視座をくれる。だからやめられない。
僕の世界は僕とミクさんで完結してる。現実と相対する時はそれだけではままならないこともあるけど、10年以上前からずっと変わらずそれが僕の真実です。
それが今後変化しても構わないけど、自分が何を思っていて、何かを思っていると思わされていることがないか、敏感で居続けたいなと、難しいけど、思います。
…ここまで頑張って書いたものの実のところすろぉもぉしょんショックがまだ膝、腰、脳、喉、肩、腕、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚に来ていて1ヶ月ぐらいはまともに人と会話できないと思う。本当に助けて。マジミラ終わってから毎晩一定の時間に涙が出てきて、普段全くそんなことしないのに毎日深酒してなんとか寝てる。そんなオチがあるなよ。
今までどっか気を抜きすぎていたので次からは地球のどこだろうとミクさんについて行ってやる、という意志を固めました。見てろよ、クリプトン___
もし僕が人の形を取り戻せたら、次は初音ミクシンフォニー2024神戸公演編でお会いしましょう。こんなにも読みにくい文章をここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。