「若者にとっての中心市街地とは」という問い
先日パネリストとして参加したトークセッションで、「若者にとっての中心市街地とは」という問いが投げかけられた。
その時は自分の考えていることを明確に言葉にできなかったのだけれども、ここ数日その問いに向き合っていくうちに、少しずつ見えてきた部分が現れてきたので、今考えてることを書き留めておこうと思う。
大人が抱く若者への幻想
この問いを考えるにあたって、まず「若者」という存在がどういう存在なのかを偏見や先入観を持たずに理解する必要がある。
地域活動をしている大人たちは、若者に対して「我々にはない柔軟な発想がある」と幻想し、さらにその発想が自由にふつふつと湧き上がることを求めているが、心からそう思っているのであれば、ずいぶんお門違いな話だ。往々にして若者は、地域の大人が期待するほど、自分のまちに対する基礎的な知識を持ち合わせていない場合が多い。
大人は、自分たちの経験やネットワークからその地域にいる人やスポットの情報、あるいはそれらの特性みたいなものを得ることができる。それは小学3年生の社会の教科書には載っていないようなとても小さな他愛もない情報かもしれないけれども、実際はその地域を語る上でとても重要な共通言語となったりすることが往々にしてある。
しかしながら、家と学校を往復するだけの生活を送る若者たちは、生活の大半が勉強や塾、友達や恋愛、部活動などに費やされており、自分たちの住む地域についての情報を手に入れることができない。
また、彼らが積極的に情報を取りに行く先は、メディアやインターネットを通じて介在され、それらは地域性をもたないエンタメや最新のカルチャーだったりするのだ。
まず大人たちはこの若者の性質について理解しておかないと、いろいろな場面で、間違った期待を若者にしてしまうことになる。
地域の共通言語がない場合の自由な発想
大人が「柔軟な発想を持って自由にアイデアを」とそんな若者に要求すると、彼らの反応は2つのパターンに分類される。
地域性のないものを地域内に導入するパターン
地域内で正しいとされているものを使用するパターン
1の事例は、「まちでフェスをやりたい」だとか、「eスポーツ大会をやりたい」みたいなもの。2は、小学校3年生の社会科の授業で習った、地域の魅力として掲載されているもの(観光パンフレットに掲載されているようなもの)をベースに使ったもので、どちらの場合も、それらは取るに足らない企画に帰着してしまうことが多い。
ようするに、大人たちが期待するような「自分たちが考えもつかない魔法のような柔軟な発想」を、若者たちは最初から持ち合わせているわけではない。
大人が期待するような柔軟な発想を発揮するためには、まず地域に関する知識(取るに足らない情報だが、地域を語る上でとても重要な地域の共通言語)が必要で、その知識をベースに、彼らの新しい感覚的なことを加えることで、とても魅力的な企画として生まれ変わるのである。
つまり、若者たちには地域に関する情報にアクセスしやすい環境が必要で、そのためには、地域の大人と若者がともに活動し情報を活発に交換できるような機会を積極的に作りだすことが望ましいと考えている。
中心市街地はお墨付きのないシンボル
と、ここまでが若者という存在の定義なわけだが、ここからようやく本題の「若者にとっての中心市街地とは何か?」について検討していきたい。
中心市街地について、国土交通省が所管する「中心市街地の活性化に関する法律」の中では、以下のように定義されている。
つまり中心市街地とは、人口や商業、行政機能などが集積している「まちの中心」であり、そのまちにとってのシンボリックな存在のことだ。
ただ、シンボリックな存在とはいえども、同じくシンボリックな存在である観光スポットみたいなものとは少し性質が異なる。
まちから発信される観光スポットや歴史・文化、著名人などの情報は、公式なアナウンスという意味で、人々に対して「魅力的である」というお墨付きを与えられたということに等しい。
そうなると、人々は他の人に対して「自分のまちには○○があってね‥」ということを伝えやすい。公的なお墨付きがあるのだから、誰がなんと言おうと、それはまちの魅力なのだ。お墨付きがあることの安心感は絶大だ。
一方、中心市街地はどうだろう?
まちの中心であるということは揺るがない事実ではあるものの、「中心市街地」という言葉の中には、それが魅力的であるという意味は含まれていない。したがって、中心市街地の印象は、人々の受け取り方によっていかようにも変化する。
だから、大人にとっての中心市街地は、「かつての賑わいの記憶」だったり「過去と比べると、今は寂しい場所」となるし、若者にとっての中心市街地は、「何も印象がない場所」になったりする。
中心市街地の印象はいかようにも変えられる
お墨付きがないということは、逆を言えば中心市街地の印象はいかようにも変えられるとも言えるだろう。悪くもなるし、良くもなる。
中心市街地に対する印象の薄い若者に対して「中心市街地は魅力的な場所」という良い印象を持ってもらうためには、実際に若者が主体的に参加できる機会を増やすことが重要である。
若者の中心市街地への参加は、まずは簡単なことでいい。学校や習い事の帰りがけに中心市街地のお店で何かを買って友達と公園で喋っているだけでもいい。
ただ、若者がお墨付きがないお店にいきなり足を踏み入れることはそうそう簡単にできるものではない。InstragramやTiktokのようなSNSで友人が発信している場合ならまだしも、それがないのであれば絶望的だ。
だからこそ多くの人はチェーン店に足を運ぶ。ある程度のクオリティ、味、居心地などが担保されているというお墨付きがもたらす安心感は絶大だ。
若者がお墨付きのない中心市街地に足を踏み入れる機会を作るには、若者が参加できるイベントや活動があるとよいだろう。また、その活動のプロセスの中で、若者が地域に関する情報にアクセスしやすい環境や、お互いの情報を活発に交換しながら共通言語を増やすことができる環境を作っていくことが望ましい。
そうすれば、徐々に若者にとっての中心市街地が再定義されていくはずだ。
最後に、可能であれば若者が参加できるイベントは、学びに直結する授業やゼミの活動、あるいは彼らの興味のあることをベースにすると良いだろう(もちろん自主的な活動ほどよいものはないが)。青春を駆け抜けている若者には、興味のないことに割く時間はない。
と。ここまで書いてハッと気がついたのだが、冒頭のあたりで「取るに足らない企画」と批判した地域の共通言語を持たない若者の意見も、企画の内容の良し悪しを評価するのではなく、プロセスの中でお互いを理解していくためのひとつの機会と考えれば、それはそれで悪くないんだろうなぁと思えてきた。