ミニシアター教(狂)

「ミニシアター」という言葉を、あのコロナ禍で、耳にした方も多いと思う。あの時、「ミニシアター」ではなくて、「コミュニティシネマ」という言葉が流布されるべきだった。

どちらも定義の不安定さは否めないが、後者は前者に比べて、より包括的な概念だ。「ミニシアター」は「コミュニティシネマ」に含まれる。「ミニシアター」と比較される用語として、「シネコン」がある。

「シネコン」とは「シネマコンプレックス」の略称だ。先の二つに比べて、こちらの方は定義のゆらぎが少ない。

沼津市で考えると、2つある映画館は、「シネコン」だ。「ミニシアター」は線引きが難しい。ある人にとっては a が「ミニシアター」でも、別の人は、そのように認識していない可能性がある。「シネコン」では、このような認識の差は少ない。

そもそも、大多数の現代人にとって、まず、浮かぶ映画館は、「シネコン」だ。「映画館やりたい」とみんなに言うと、まず、こちらを連想されてしまう。沼津市民に、このことを言うと、「2つあるのに、なんで?」、「あんな広い土地持ってるの?」…的なレスポンスをいただく。余談だが、沼津に映画館があることを知らない方もいた。映画館・映画って、知られていないことが当たり前なのかもしれない。

大雑把なことを言うと、「シネコン」も「コミュニティシネマ」に含まれているのかもしれない。先日、行われた「コミュニティシネマ会議2024」に参加して、ふと思った。理由は、シネコンの方も会場にいたから。配信の方もいたから、もしかしたら、こちらも、「コミュニティシネマ」に含まれるのかもしれない。

「コミュニティシネマ」の受け皿は、大きい。映画館ではない場所、ex) カフェやギャラリー、学校…で映画を上映している方々も「コミュニティシネマ」に含まれる。そもそも、こちらの方々を指して、「コミュニティシネマ」という考え方が出てきたような気がする。

あのコロナ禍の時、「ミニシアター」という言葉が、巷で流れてきた時、「シネコン」ではない映画館もあるのかという認識をした方も多いと思う。「シネコン」と対峙する存在として。

「シネコン」に行く人は、「ミニシアター」にも行くのか。「ミニシアター」に行く人は、「シネコン」には行かないのか。ふと、昔の(2-3年くらい前?)自分を思い出してみる。自分は、「ミニシアター教(狂)」だった。観た映画の数ではなくて。「シネコン」を毛嫌いしていた。今年、29歳になるのだけど、「ミニシアター」全盛期世代?が、「ミニシアター」=カッコいいと認識していたように???
「ロクなもの流さないな、シネコンは」と。

そんなことはない。まず、アカデミー賞作品は上映しているし、「ミニシアター」で上映している作品も観ることができる。自分は、変なこだわりを持っていたのだ。ロマンと言うのか。「他人とは違うぜ」的な優越感を「ミニシアター」で味わっていた。周りには、自分より年上が、圧倒的に多かったので、「同世代のやつらとは違うぜ」・「尖ってるぜ」と。恥ずかしいというか、「イタイ」。

「シネコン」「ミニシアター」に行って、配信でも、DVD・Blu-ray、TVでも観るというのが、ここ最近の自分。あと、上映会や映画祭に参加する。

「ミニシアター」で上映している作品が、「シネコン」では流れないこともあるし、その逆もある。驚いたのは、宮崎駿『君たちはどう生きるか』を20席ほどの映画館で、上映していた。昔では、ありえなかった…のでは。もちろん、観に行った、そこに。「シネコン」で観なかったから比較はできないけれど、小ぢんまりとした場所で、観ると心地が良かった。場所なのか、その場で働く人々なのか。騒がしさ・忙しなさがなかった。100席以上ある「ミニシアター」でも感じたことのない感覚。「俺は、もしかしたら、こういうことがやりたいのかもしれない」という錯覚。

そんな小さな規模では、運営できない。他に事業をやっていないと。資金力がないと。さあ、どうしよう。いま、自分はここにいる。

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