「社会」と「人間」の今を見つめる3つの新作 オススメの良作を紹介【次に見るなら、この映画】2月6日編
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今週は、映画館で鑑賞できる新作から、見れば絶対に心に響くある殺人犯の再出発を描く日本映画、実在の未解決事件を題材としたサスペンス映画、昨年11月に死去したマラドーナを追うドキュメンタリーの3本を選んでみました。
①「ゆれる」「永い言い訳」の西川美和監督が、名優・役所広司と初タッグを組んだ人間ドラマ「すばらしき世界」(2月11日公開)
②「ヒッチコックの映画を模倣した殺人事件」と報道され話題となった実在の事件が題材の裁判サスペンス「私は確信する」(2月12日公開)
③アルゼンチンの伝説的サッカー選手ディエゴ・マラドーナのドキュメンタリー「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」(公開中)
劇場へ足を運ぶ際は、体調管理・感染予防を万全にしたうえでご鑑賞ください!
「すばらしき世界」(2月11日公開)
◇初の原作ものであり、西川美和のアウトサイダーものの集大成でもある(文:ライター・編集者 高崎俊夫)
西川美和監督は、これまでデビュー作「蛇イチゴ」では香典泥棒を繰り返すセコい男、「ディア・ドクター」では僻村で働く偽医者、「夢売るふたり」では結婚詐欺師と、世間の片隅で、ささやかな悪行に手を染める者ばかりを好んで主人公に選び、いわゆる心温まるヒューマニズムを決然と拒否する、ひと筋縄ではいかない屈曲に富んだドラマを紡いできた。
今回は、初めてオリジナルではない原作ものに挑み、佐木隆三の「身分帳」をベースに現代に置き換えて物語を構築している。
主人公の三上(役所広司)は人生の大半を刑務所で過ごしてきた元殺人犯で、身元引受人の弁護士夫婦(橋爪功、梶芽衣子)の庇護の下、再出発を図ろうとするが、世間の目は冷酷で、さまざまな局面で、三上は疎外感を味わう。正義感がめっぽう強く、一本気で直情型なのに、ひとたび激高すると手の付けられない凶暴さを見せる。この得体のしれない怪物的なキャラクターを役所広司は見事に演じている。
映画は、前科者の社会復帰、生き別れた母との涙の対面という筋書きのヒューマン・ドキュメントに仕立てようと目論むテレビマン津乃田(仲野太賀)の視点を介して、三上の悪戦苦闘ぶりを刻々ととらえてゆく。やがて、津乃田は自らのふがいなさを内省し、三上という男の不思議な魅力に憑りつかれ、ノンフィクションを書く決意をする。
そしてその冒頭を書き始めた瞬間に、悲劇は起こる――。
三上という一見、常軌を逸した人物は、日本映画史においては、「無法松の一生」で阪東妻三郎が演じた富島松五郎から、「男はつらいよ」で渥美清が演じた車寅次郎に至る<聖なる愚者>というアウトサイダーの系譜に属する。さらに、長谷川伸の「瞼の母」の<母恋い>のモチーフが重なることで、古典的なドラマの陰翳がさらに深まった。
西川美和はこれまでヒロインに視点を据えることを避ける傾向があったが、本作では、「お前はもう終わってる!」と津乃田に啖呵を切るTVディレクター長澤まさみ、「見上げてごらん夜の星を」を熱唱して三上を励ます梶芽衣子、大震災で零落した宮城出身のソープ嬢桜木梨奈、三上を娑婆へと送り出すやくざ組長の姐さんキムラ緑子と、女性たちがすべて際立って魅力的で、深く印象に残る。
「すばらしき世界」は西川美和のアウトサイダーものの集大成でもあるのだ。
「私は確信する」(2月12日公開)
◇実話に基づく法廷劇が自己矛盾をはらみつつ突きつける“厄介な正義感”(文:フリーライター 高森郁哉)
フランスで耳目を集めた「ヴィギエ事件」の裁判。その不条理さはまさにカフカ的悪夢だ。法学教授の夫と3人の子を残してスザンヌ・ヴィギエが失踪した。その後彼女の愛人オリヴィエの告発により、夫ジャックが妻殺しを疑われて勾留、のちに2度の裁判にかけられる。遺体もなければ、妻を殺した証拠も自白もないのに!
夫婦仲が冷めていた、失踪後にマットレスを処分したなど、ジャックに不利な状況はいくつかあった。さらに彼がヒッチコック映画のファンで、「完全犯罪は可能だ」と学生に話していたことも世間を騒がせた。
「私は確信する」は三重の衝撃をもたらす。まず驚くのが、フランスの司法では確たる物証がなくても疑わしい状況証拠があれば殺人罪で刑事告訴され、有罪を言い渡される可能性があるということ。
この裁判で言うと、スザンヌが殺されたことを示す証拠やジャックが殺したことの証拠がなくても、陪審員の一定数が「ジャックが妻を殺した」と確信したら、有罪になってしまうのだ。当時マスコミは「ヒッチコック狂による完全犯罪か?」とセンセーショナルに報じたといい、そうした偏向報道と世間の声が冤罪を誘発する図式は、悲しいかな日本でも繰り返されてきた。
ストーリーはシングルマザーのシェフ、ノラの視点で語られる。法律の素人だがジャック(ローラン・リュカ)の無罪を信じ、著名弁護士デュポン=モレッティ(オリビエ・グルメ)に控訴審を担当するよう懇願し、膨大な通話音源の文字起こしで協力する。
事件の当事者でも専門家でもない一般人に映画と観客の橋渡しをさせるのは常套手段だが、次第に雲行きが怪しくなる。通話記録からオリヴィエこそが真犯人だと思い至ったノラは、子育ても仕事もパートナーとの関係も疎かにして素人探偵活動にのめり込んでいく。
コミカルな役どころで知られてきたマリナ・フォイスによる鬼気迫る演技と、たたみかける展開でサスペンスを盛り上げる演出により、正義感が暴走する様が第二の衝撃をもたらす。
そして、劇中では明示されない部分に第三の衝撃がある。これが長編デビュー作となるアントワーヌ・ランボー監督(兼脚本)は、ほぼすべての主要人物の実名をそのまま使って裁判の経緯をスリリングに再現したが、唯一ノラのキャラクターは創作したことをインタビューで明かしている。
そのモデルになったのは、法学部の学生だった頃にジャックと出会い、スザンヌの失踪後に彼と同棲するようになった若い女性だという。ジャックたち家族と支援者のプライバシーを守ると同時に劇的な効果を上げるための改変は当然認められるにせよ、そのせいで相対的にオリヴィエ側の印象を悪くしているとすれば、偏った正義感から他者を断罪することの危うさに警鐘を鳴らす本作もまた同じ罠にはまっている――
いや、そんな自己矛盾をはらむ映画を作った監督こそが“確信犯”なのかもしれない。いずれにせよ、決めつけは慎もう。自戒も込めて。
「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」(公開中)
◇勝敗も敵味方も関係なく感動させるアートを見せた、ナポリの7年間(文:サッカー評論家 西部謙司)
「走ったら、そこへ出すから」
ディエゴ・マラドーナはチームメートへそう伝えていたそうだ。実際、走れば鼻先にボールが届けられた。敵に囲まれたマラドーナの左足から、その隙間を通って。
サッカーには戦術がある。勝つために、チームとしてどうプレーすべきか。1980年代後半は戦術とシステムが以前より重要性を持ち始めた時期だ。システムはより緻密になっていく一方で、プレーヤーが没個性的になっていった時期でもある。システムのためにプレーしなければ生き残れない時代に突入していた。
だが、マラドーナは常にシステムの外にいた。
走れば、そこへ出す。これ以上ないほどシンプルだが、簡単なのはチームメートだけで、マラドーナのほうは簡単ではない。1人で複数の敵と戦いながら、一瞬で最適解を弾き出す技術はもはや人間業でなかった。だから戦術はマラドーナになった。
サッカーは不確実で、人が考えたシステムでカバーできるほど単純にできていない。システムが確実そうに見えるのは罠にすぎないのだが、それしか頼るものがないから縋りたくなるわけだ。システムなんか実はザルだ。その粗い網の目からこぼれてしまうものを、マラドーナはまとめて解決してくれた。走れ、走ったらボールを届けてやる。シンプルな指示は、めんどうなことは自分が一手に引き受けてやるという意思表示である。
SSCナポリはマラドーナに縋った。下手なシステムより、よほど頼りになるからだ。マラドーナがナポリのシステムであり、それはアルゼンチン代表も同じで、つまりマラドーナは常にシステムより上位の、システムの外に存在する、おそらく唯一の存在だった。
マラドーナは常に弱い者の味方だった。
ナポリを追われた直接の原因はコカインだが、きっかけはイタリアワールドカップである。準決勝でアルゼンチンがイタリアと対戦したとき、マラドーナはナポリ市民の側に立ったからだ。会場はナポリのホームスタジアム。マラドーナのいるアルゼンチンではなく、ナポリ市民はイタリアを応援すべきだとの世間の圧力に対して、「今までナポリの人々をさんざん差別しておいて」と、マラドーナは牙を剥いた。そのとき、マラドーナはイタリア分断の扇動者とされた。
システムの外にいる人間が信じるのは自分の法である。システムが命じてくる法ではなく、自分の信じることを行い、自分に正直に生きる。マラドーナはフィールドの中で間違うことはなかったが、フィールドの外では間違いも犯した。ただ、どんなときでも人間的で、システムにへつらいすぎて自分をなくすことはなかった。
ナポリの7年間は、あれほどの天才にしては短い全盛期だ。しかし、試合に勝つ方便としての技術を超え、勝敗も敵味方も関係なく感動させるアートを見せた。好きな人も嫌いな人も彼を無視できない。人々はシステムの檻の中から、飛び回る鳥を眺めていた。
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