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自分の内面を見つめてみようキャンペーン

を、してた。12月から最近まで。一旦落ち着いたという感じがするので、ここまでの成果(?)をできる範囲でまとめておきたいと思う。

確実になにかしらの内面の変化があったとは思うのだが、なんだかぼんやりとしていて、以前と比べてどこが変わったのかちゃんと思い出せないところがある。
思い出したら続編という形でまた書くかもしれない。

どう変わったのか

私は「真面目」と言われる性格をしていた。
世の中に溢れた優劣の基準、順位づけみたいなものに縛られて、優の方にいたほうがいいのだと思い込んでいた。
例えば、勉強はできた方がいいとか。積極性が大事だとか、友達は多い方がいいとか、美人の方が、活発なほうが、真面目なほうが…キリがない。
優越感に浸ったかと思えば劣等感に苛まれる。息苦しさを覚えていた。

12月にそれを言語化してくれているnoteと運命的な出会いを果たしてしまい、私を縛りつけていたいろいろなものが一気にダン!!!と外れて落ちた。びっくり。

私は前よりちょっと自由になった、のかもしれない。

100%の自由も、不自由も、ない

勉強はできた方がいいとかよく言われる(気がする)。
私の両親は以前、「宿題課題はちゃんと出そう。自主学習はやらなくてもいいよ。」と声をかけてくれていた。
先生に褒められたかった幼い私はその言葉を受け取らず、ちゃっかり自主学習をやっていた。そのせいで放課後に友達と遊ぶ時間は少なめになった。
中学生ぐらいの時期には、特定の友達とだけ喋って、クラスの半分以上とは言葉をほぼ交わさないみたいな人間になっていた。
馬鹿騒ぎをしているクラスメイトを見て、ばかだね〜と思うと同時に、休み時間なのに口をつぐんだまま椅子から立ち上がれない私に劣等感を抱く。みたいな。
なんで私は上手く喋れないんだろう、あのグループの子達はいつも笑い合っているのに…まあでも私には勉強があるから、みたいな。そんなに頭がいいわけでもないのに…
騙しだまし。くるし。
勉強を頑張る人と、友達とたくさん遊ぶ人。
ここに優劣はあるのだろうか。

優劣で測るもんじゃないだろ、と今の私は思うのだ。

あの頃の優越感と劣等感にはここで永遠の別れを告げたいが、それらが存在していた事実は消えないので認めてやることにする。
私は縛られていた。それを今は自覚できている。これでいいや。

優越感や劣等感がふつ、と生まれた時、私は私を疑う。
なぜそれが生まれてしまったかを考える。
そこにある優劣とは何か。それは本当に存在しているのか。
私は縛られてはいないだろうか。

縛られていた、と自覚できたとき、ちょっと自由になる感覚がある。


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