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【施術哲学#5】子どもたちのアドボカシーとパターナリズム

※この記事では「支援者」という言葉を使っています。これは、行政の福祉担当者、医療、介護、福祉に携わる事業所、スタッフ、専門職、そして保護者も含んだ意味で使っています。お子さんを持つ保護者の方は、「支援者」を「保護者」に、「支援する」という言葉を「子育てする」に変えて読んでみてください。


1、代弁と干渉は表裏一体


【アドボカシー(advocacy)】
特定の問題に関して社会的弱者の権利を保護したり、意思表示の難しい人の主張を代弁したりする活動。ラテン語の「voco(声を上げる)」に由来する言葉で、直訳は「擁護」「支持」。

【パターナリズム(paternalism)】
強い立場にある者が弱い立場にある者の利益のために、その者の意思とは関係なく干渉や支援を行うこと。
ラテン語の「pater(父)」に由来する言葉で、直訳は「家父長主義」「父権主義」。

この2つの言葉、概念は、場面によってイメージするものが変わりますが、医療、介護、福祉分野での現場では、考えなければならない場面の多い概念です。
高齢者、障がい者、子どもたちなど、意思表示の難しい当事者の方と接することが多く、そういった方々を支援、サポートすることを仕事にしているからです。子を持つ親であれば、子どもへの「養育義務」があります。

しかし、人の考えや主張というのは複雑で、例え親子であっても、他者が簡単に代弁できるものではありません。

例えば大人が赤ちゃんをみて、お腹すいた、眠い、抱っこしてほしい、嫌がってる、喜んでる、くらいのことを、「なんとなく」理解することはできたとしても、ずっと一緒にいる母親であっても100%代弁することは不可能です。代弁できてるかどうかを確認する術はないからです。

アドボカシーを実現するには、支援者側に知識と経験が必要です。一方で、知識と経験が蓄積すればするほど、「こうするべき」と、相手の主張を無視して介入するパターナリズムに陥ります。

アドボカシーが正、パターナリズムが悪、

というわけではありません。

子どもたちをはじめ、意思表示や、自分で判断する、ということが難しい人達に対して、意思表示や自己判断を強要するのも酷なことであり、かといって他者がその人の意思を100%代弁することもできません。

自分にはどうすることもできないことを、知識と経験を持った人に判断を委ねたいということもあるでしょう。

ある程度、代弁できているという前提で、干渉していく方法で、他者を支援するということは成り立っています。

代弁することと、干渉することは、常に表裏一体であり、そこには支援者のパターナリズム的介入も、アドボカシー的意思決定も、どちらも含まれています。


2、良かれと思ってのパターナリズム


中には、支援者側の何らかの都合によって、誘導的に支援者に有利な方向へ持っていこうとする人もいるでしょう。

しかし多くの場合、「良かれと思って」、支援者が正しいと思う介入を行っていることがほとんどです。

支援者は、支援することが仕事ですから、自分の支援は必要ないという判断を下すことは難しいのです。

事業によっては顧客損失につながり、公的機関であればサボタージュであると捉えられかねません。

親であれば、育児放棄と言われるかもしれません。

何かしてあげる、支援することが当たり前になっていきますし、周囲からも、そのような役割を暗黙のうちに与えられ、求められます。

3、支援者の目的は、支援を必要最小限にしていくこと


支援者は、支援することが正ですから、結果的にこれもしましょう、あれもしましょうと、きめ細かく支援やサービスを増やしていく傾向があります。
しかし、支援やサービスが増えるにつれ、本人の意思の代弁(アドボカシー)から離れていきます。

本人が望んだことかどうかに関係なく、必要だから、良いものだから、という理由でパターナリズム化していきます。

こうなると、支援やサービスを受ける側も当たり前になり、自立に向けて頑張ろうという機会も気力も奪ってしまうことになります。

支援者と呼ばれる立場の人の目的は、支援を必要最小限に抑え、自分でできることは自分でできるよう、自立を促すことではないかと考えます。

4、支援者の心構え


私の仕事は、障がいを持つお子さんへの医療マッサージ施術、はり治療です。しかし、専門的な知識を持ってママやお子さんと接する点において、「支援者」という立場であると考えています。

すべての立場の人に当てはまるものではありませんが、私が患者さんと接するときに心がけていることは、次の点です。

・多面的に相手の意思を分析する(その人が大事に感じていることは何かを知る)
・誘導的ではない情報開示(あらゆる選択肢を提示する)
・自分の知識や経験を、判断を下すのに使うのではなく、相手に判断材料を与えるように使う
・もし支援者側に判断を委ねられたとしても、メリット、デメリット、リスクについてしっかり考え、正しいか間違っているかではなく、その人の価値観に沿った判断であるかを熟考する
・必要ない支援は必要ないと判断する勇気を持つ

というものです。

もちろん完璧にできてるか?と言われたら難しいですが、常に意識するようにしています。


★他の記事もマガジンにまとめています。
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