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 ゑひ[酔]では、毎週日曜日に、上原ゑみの新作の俳句を発表します。毎週5句発表です。
*今週からコーナー名を変更しました

冷まじき町の時計やよぢ登る
いつもとは別の松茸ブローカー
十月のナイフを挿せるドアの裏
人の顔の絵ピーマンを焼く匂
ふらんふらんさふらんいろのふゆじたく

 さて今回は俳句の話を。5句中、季語「冷まじ」は懸案だった。「冷まじや~」と切る一辺倒の頃は、それどころではないレベルなので問題に行き当たる段階ですらなかったが、そのうちいろいろ試してみたくなっての「冷まじき~」を作り出すようになってからは各所で用法の指摘を受けるようになった。今回の「冷まじき町の時計やよぢ登る」が悩ましいのは (※他のツッコミどころは無視して今は季語にのみ焦点を当てます)  形容詞「冷まじき」の掛かる先で、それが町だったらOK寄り・時計だったらNG寄りということになるらしい。ここでまずは歳時記を確認したい。

【冷まじ】《晩秋》すさまじ
 晩秋に秋冷がつのる感覚をいう。
◇「すさまじ」は、期待外れで白けた気分や、殺風景で興ざめなさま、心まで冷えるような寒さ、荒涼としたさまなどをいう語であった。『玉葉集』の〈冬枯のすさまじげなる山里に月のすむこそあはれなりけれ 西行〉では、冬のありさまに用いられている。晩秋の冷然・凄然とした感じをいうようになったのは連歌の時代以降。

『合本 俳句歳時記』第五版 角川書店編

 すさまじの意味するところは複数あり、時代が下がるに従い用法が広がっていったことがわかる。まず思いつくのは平安時代、枕草子の一節で、現代語訳すると「すさまじきもの。昼に吠える犬。春の網代。三月、四月の紅梅色の着物。乳飲み子が亡くなった産屋。火を起こさない丸火鉢、地火炉。」と興醒めするモノを挙げることに始まり、「牛が死んだ牛飼。博士が続けて女児ばかり産ませること。方違えに行ったのにもてなしをしない所。まして節分違えなどの場合はたいそう興ざめである」云々と白けた心の有り様が以降も続く。つまりドン引きするモノとそれを見た気分に対し、すさまじが使われている。歳時記の言う “連歌以降の用法” とは、風景や人物の態度等、客観的な事象や行為についても「寒々しい」「冷たい」として、より広義に使われるようになったことを意味し、「すさまじ」に「冷」の字を当てるようにもなった。
 仮に自作の意図するところが 〈冷まじき時計〉だったとして、モノに当てる用法自体は平安時代のすさまじ的であると言える。が、火を起こさない丸火鉢や地火炉が、役に立たない故に「すさまじ」と読み手に了解されるような根拠、それが、ただ時計と言っただけでは成立しない。 (例えば時計の故障を知らせたいとしてもその余地が十七音には無い。) だからもちろん作者としても 〈冷まじき町〉 の時計と読んでいただきたいのだが、その説明の仕方に窮して言語化能力の高い若洲至に問い合わせた回答が次。

 「冷まじき」は現代語における「凄まじき」とは違う、「寒々とした・荒涼とした」という意味を持つという前提で、その形容詞の対象になるのは、一定の空間を持つ名詞だということです。季語の本意というよりは、コロケーションとして無理がある、という理解ですかね。「灼熱の時計」と言わない理由と同じです。

若洲至

 そう。そういうことが言いたかったんです汗。若洲の言う「一定の空間を持つ名詞」の最適解はたとえばこんな句にあった。

すさまじき真闇となりぬ紅葉谷  鷲谷七菜子

 自作は、冷まじいのは町なのか時計なのか、そこが表現上紛らわしいからいけない。「冷まじや町の時計をよぢ登る」であれば、全方位の守備が整うのだがでも。型を信じるのと型に逃げるのは違う気がしてそうはしたくなかった。また頑張ります。

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