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 NHKで10月1日に配信されたこのニュースは、メキシコの国家史上初の女性大統領就任を報じるものである。政治を司る長を女性が務める/務めたことのある国や地域が増える中、メキシコは人口1億を超える国家として3番目の女性リーダーを誕生させた国となった。

 メキシコの政治をよく知る立場ではないながら、このニュースが気に留まったのには別の理由がある。次を読んでみていただきたい。

議場からはスペイン語で「大統領」を意味する「プレジデンタ!」という掛け声があがり、メキシコ初の女性大統領の誕生を祝福しました。

 なるほど、めでたい瞬間であることがわかる描写であるとともに、国家の議場とは基本的にどの国でも同じような光景なのだなと想像の働く表現である。

 でもなぜ、わざわざこの一文が入っているのだろうか? なくても伝わるような気がするのだが、なぜこの段落が入っているのだろう?

 本来この文章は、このシーンが歴史的な瞬間を表現するのに必要不可欠である。しかしながらNHKが外国メディアから提供されたものを解釈し、日本語に翻訳して発表したことで、その特徴が失われてしまったのではないかと推測している。

 試しに「大統領」を和西辞典で検索してみると、”presidente” と ”presidenta” の2つの語が併記されている。これは、同義語が並んでいる訳ではなく、文法的性が異なる2つの語形があることを示す。そして ”presidenta” は、女性大統領を意味するときに(のみ)使用できる語形である(”presidente” は男性形ではなく、男女ともに用いることができる語形)。 記事中の問題として指摘するなら、「スペイン語で「大統領」を意味する『プレジデンタ!』」という言葉の解説が不十分である。「プレジデンタ」が大統領を意味する単語であることは誤りではないが、女性大統領にのみ使うことが明記されていないがために、掛け声の「女性大統領の就任ならでは」の特徴が伝わりにくくなってしまっているのだ。

 重要な部分であるとわかるのは、大統領演説の全文の中に次のような部分が見つかるためだ。大統領の就任に関する記事をメキシコ政府のホームページから引いた。

Y con ello hago una respetuosa invitación a que nombremos presidenta con ‘A’ al final, al igual que abogada, científica, soldada, bombera, doctora, maestra, ingeniería con ‘A’, porque, como nos han enseñado, sólo lo que se nombra existe.

〈Chat GPTを用いて翻訳〉
それにより、最後に 'A' を付けて、弁護士(abogada)、科学者(científica)、兵士(soldada)、消防士(bombera)、医者(doctora)、教師(maestra)、そしてエンジニア(ingeniería)と同じように、私たちは ‘A’ をつけた『 presidenta 』と呼ぶことを尊重をもって提案します。なぜなら、私たちに教えられた通り、名前をつけられたものだけが存在するからです。

 スペイン語の名詞の女性形は "a" で終わることが多く、前半ではその事例を列挙している。最後の方の日本語が若干怪しいが「名付けることで物体は存在する」というソシュールの主張を踏まえたものと考えてよいだろう。全体としては、女性大統領の存在を際立たせるために、あえて "presidenta" という呼称を用いてほしい、と述べていると考えられる。

 ちなみに、このニュースについてフランスの国際放送局であるフランス24や米国のABCニュースでは、次のように報じている。

En su primer discurso presidencial, Sheinbaum agradeció a la ciudadanía mexicana por haberla elegido como la primera presidenta en la historia del país y afirmó que ella representa una transformación en la mentalidad popular mexicana, en la cual ahora las mujeres también pueden ser presidentas, "con 'a' al final". "Solo lo que se nombra existe", señaló.

〈Chat GPTを用いて翻訳〉
初めての大統領演説で、シェインバウムは自分を選んでくれたメキシコ国民に感謝し、国の歴史上初めての女性大統領として、彼女はメキシコ国民の意識の変革を象徴していると述べました。今では女性も大統領になれるのです、『a』で終わる形でね」と語りました。そして「名前をつけることで初めて存在が認められる」と強調しました。

After a smiling Sheinbaum took the oath of office on the floor of Congress, legislators shouted “Presidenta! Presidenta!” using the feminine form of president in Spanish for the first time in over 200 years of Mexico's history as an independent country.

〈Chat GPTを用いて翻訳〉
シェインバウムが議会で宣誓を行った後、議員たちは「プレシデンタ!プレシデンタ!」と叫びました。これは、メキシコの独立以来200年以上の歴史の中で、初めて女性形の大統領が使われた瞬間です。

 フランス語には文法的性があり、スペイン語と同じくラテン系言語のため、詳細な説明が省略されているが、演説を効果的に引用している。英語では文法上の性がほぼ消滅しているため、女性形であることを説明に盛り込んでいる。

 文法的性を持たないために、日本語ではこのような表現を行うことは不可能だし、そのような表現が可能なこと自体に気づくのも難しいかもしれない。よく、日本語は多義的で繊細で表現の幅が広い的な論を目にすることがあるが、すべての場合で必ずしもそうだとも言えない。”presidenta” という一語を巡って女性大統領の就任を象徴的に表せるスペイン語の言語機能も、また別の表現の幅のポテンシャルを持っているのである。

 そして "presidenta" という単語にとっても、メキシコ初の女性大統領就任という出来事は極めて重要な瞬間となった。次のグラフは "Google Ngram Viewer" で作成したものである。青が "presidente"、赤が "presidenta" が、その年の書籍の中に発現した頻度の経時的なグラフである。年次は1800年から2022年となっている。

 これを見ると、女性形 "presidenta" の発現頻度は "presidente" に比べて非常に低かったことがわかる。これはスペイン語圏各国の大統領が、ほぼ男性であったことと関係があるだろう。メキシコはスペイン語圏で最大の人口を擁する国である。今回の女性大統領の登場によって、おそらく単語史上初の利用頻度の伸び率を記録することになるだろう、なんて思うのだ。

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