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五月病と『四月病』【月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号 『形から』を読む〈中編〉】

 こちらの記事は、月刊 俳句ゑひ 皐月(5月)号の『形から』(作:上原ゑみ)を、若洲至が鑑賞したものです。まずは下の本編、及び〈前編〉をご覧ください!


嵌まらぬ月の五月病

 前回(2023/06/08発表)の鑑賞を通して、上原にとっての5月が、環境にまる月」であるという仮説を立ててきました。もちろん時と場合によって、その人が5月に「嵌まる」か「嵌まらない」かは差があるはずですが、にしても「嵌まる・嵌まらない」の軸を大きな論点としながら心情が動いていくさまが、上原作品の中で5月の側面として捉えられているのでは? という仮説です。

 それを踏まえて今回は、上原作品から読み取れる5月の心情にさらに迫っていきます。キーワードはズバリ「五月病」。環境にはまった側ではなく、どちらかと言えば、はまれなかった側の心境に近いワードでしょうか。

五月病とは

 ところで五月病って、自分もなったことがあるようで、どんなものと言われるとうまく説明できないですよね。一応辞書の説明を参照し、五月病について考えてみます。

ごがつ-びょう【五月病】
〔名〕苦労して大学や会社に入った新入生や新入社員が、五月頃に経験する虚脱感を病気としていった語。

精選版 日本国語大辞典 (2006)

ごがつ-びょう【五月病】
4月に新しく入った学生や社員などに、5月頃しばしば現れる神経症的な状態。

広辞苑 第七版 (2018)

 大枠を見ると、日本国語大辞典は「病気としていった語」、広辞苑は「状態」だと説明しています。私たちの認識通り、病気ではないということは共通しています。

 説明をさらに詳しく見れば、「虚脱感」「神経症的」という単語に当たります。広辞苑で「神経症」を引くと、「不眠、不安、頭重感、動悸など不定の肉体的・精神的症状を呈する」とありました。虚脱する感情のみを説明した辞書と、肉体的影響も示唆した辞書の両方があり、どこまでを五月病と定義するかは曖昧なようですが、ざっくり、5月頃の感情や精神の不安定さだ、と思っておけばよさそうです。

 なお一般的に、五月病は季語としては扱われません。つまり五月病自体を捉えて俳句にすることはごくまれです。しかし上原作品を読むと、俳句においてもこうした心象が5月の重要な側面でありうるような気がしてきます。

虚脱感と余裕のなさ

葉桜と思ふ昨日の服のまま

 桜の花が散って桜蘂が降って、本格的に桜の木が葉をつけはじめる時期から、暦の上の夏ははじまります(現代の東京周辺の感覚とは若干ずれるかもしれません)。葉桜は初夏の季語の代表とも言えるでしょう。

 そんな葉桜を目の前にして、それを葉桜だと思う。しかも風呂に入らず寝てしまった(これは若洲のイメージに過ぎませんが)、昨日の服をまだ着ている状態で。アパートの一室、土曜日の遅い朝にぐったりと目覚めると、外の桜の木はすっかり葉桜になっていた。4月を懸命に走り切って、季節の移ろいに意識を向けるまもなくやってきた5月であるかのような。まさに「虚脱感」のようなものがここにはあります。

 昨日着ていた服のままであることは、綺麗な生活を心がけている人にとっては決して望ましいことではないでしょう。それでもそうなってしまうという様子からは本人の疲れが感じられます。さらにこの俳句のだらりとした述べ方からは、無念さや後悔の気持ちが立ち上がってきます。

 「思ふ」という語は、本来俳句に入れて歓迎される言葉ではありません。なぜなら、俳句として述べられたものは、全て作者が「思った」ものであるからです。

 しかしこの句において「思ふ」は、2つの点で必要です。1つは葉桜という季語それ自体の性質を捉えるため、もう一つは五月病的心境を描写するためです。

 葉桜という季語は、移ろいの中で成立するものです。つまり、花から実、桜蘂、そして葉というように、桜の木の変化の一期間を、見る人が独断で切り取っているのです。葉桜といっても、早くはちょっと花が残っていて同時に葉が出ているような頃から、完全に緑の葉が茂るようになった時期まであります。葉が出た瞬間から葉桜だと思ってもいいですが、花の時期を長く捉える人にとっては、葉桜だと思うのは少し遅い時期からになりそうです。花の開花とは違って、見る人がこれを葉桜だと思った瞬間から「葉桜」と呼ぶのですから、人によって違いがあるはずです。これが1つ目の葉桜という季語の性質です。「葉桜と思ふ」は、この性質を的確に捉えた表現だと言えます。

 2つ目の五月病的心境とは、端的に言えば余裕のなさです。葉桜かどうかを考えるとか、毎日毎日桜の木を見て葉桜になっていく様子を観察するとか、そういった余裕があれば、「すっかり葉桜だなあ(「葉桜や」)」とか「葉桜が美しいなあ」といった感慨が浮かぶはずです。しかしこの作者は、いきなり「葉桜と思ふ」ことになったのです。そこには深いシンキングタイムも、中長期的な観察も感じられない。ここからいわば都会的な五月らしさ、五月病の印象を受け取ることになります。

疲れてしまひ白き家白き薔薇

 上の句では、よりこの印象を強く受けることになるでしょう。日頃から白い空間(オフィスとか)にいる人物なのでしょうか。シンプルな暮らしを想像させる、白を基調とした家にも、普段は心の安寧をもたらすであろう白色の薔薇にも、作者は疲れしか感じることができなかったのでしょう。それは単に家・薔薇(だけ)に疲れたというのではなく、その暮らし自体に疲れているに違いありません。

 念のため、この句は五月病の感覚を持たずとも興味深いことを書き添えておきます。モダンデザインを志向した空間(白き家)にも疲れを感じる作者の姿からは、現代のデザイン潮流への疑問が呈示されているという読みも、個人的にはまた捨てがたいです。

 上原の観点からは、5月は「はまる・はまらない」の選択を、シビアに迫られる時期なのかもしれません。そして誰しもできれば「はまって」いたいはず。だからこそ4月に頑張って、ともすると5月に疲れが出るのでしょう。こうした様子を、初夏の季語を用いながら捉えている側面が『形から』にはあると言えます。

「四月病」と五月病

 ここからはちょっとおまけ。

 5月の頭に友人と呑んだとき、その友人が「四月病」という言葉を繰り返していました。聞き覚えがなかったのですが、文脈から類推すると「新生活で新入生や新入社員が、時に過大な関心や目標を持って懸命に取り組もうとするさま」とでも言うような感じで用いていました。「『四月病』のせいで、日本の教育とChatGPTの可能性について考え込んでしまう」みたいな感じです。

 「四月病」。確かにそういうこともあるなぁという実感もありつつ、五月病という言葉の綺麗な対比が面白い。そんなことも思いながら読んだのが次の句。

なべて半ズボン起業を勧められ

 カフェや飲み会で久しぶりに会った友人に、最近の調子を聞かれる。半ズボンを履いている友人たちは、どうやら今すごく自由な生き方ができているみたいだ。聞くところによれば、キャリアを積んで起業に至ったのだとか。彼らは彼らで、新事業の話や経営の難しさなど悩みがあるようだが、どこか余裕も見せる。自分で人生を設計できる楽しさから来るのだろうか。彼らの会話に首を突っ込めば、「君も起業しなよ!」「人生変わるぞ!」「人生は一回きりなんだから!」……

 「四月病」から来た4月の頑張りを思い返す時、そして今の生活を考えた時、さすがに厳しさを感じたのでしょうか。「なべて(みんな、の意)」や「られ」の受け身の言い方からは、彼らと俳句を詠んでいる人物の距離感を感じます。


 5月の心境を表わす「五月病」という言葉。あまり文学作品の中に乗ってくるものではないかもしれませんが、上原作品の中から、その片鱗が感じられたのではないでしょうか。虚脱感・心の余裕の少なさ、その裏にある『四月病』的頑張り。こうした経験は、恐らく皆さんにも共有していただけるのではと思います。

 もちろんこれは読みの一例ですので、自由に読んでいただいて構いませんが、こんな現代的な感覚に引き付けて読むこともできる! ということが伝わったら幸いです。

 がらっと変わりまして、皐月最終回の〈後編〉では、次の句を鑑賞してみます。お楽しみに。

うろうろと螢袋を出て入る
あつちには泉の見えて犬必死
石楠花や頂に立つ肺と肺

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