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〈秋思〉ってどんな季語?【若洲日記4】

秋思の気分とは

 前回発表した「秋の本意(現代版)――秋の歌を探して――【若洲日記3】」において、現代的な歌の中にも「秋思」の気分が感じられる、というまとめ方をしました。まだご覧になっていない方がいらっしゃたら、ぜひ読んでいただけると嬉しいのですが、今回はその「秋思」の気分とはなんぞや、というところにフォーカスを当てて書いていきたいと思います。

 お読みいただけるとわかっていただけるとは思うのですが、秋思は歴史があって俳句の世界では人気のある季語です。しかし良い句を作るのも難しいし、説明しようにもとらえどころがない季語でございまして。そんな特徴を持つ秋思について、ここからはその難しさにも焦点を当てながら書いていきたいと思います。

 なお本原稿は、もともと「ゑひの歳時記」を想定して書いていたものなので、ちょくちょく上原と若洲の句を引き合いに出しておりますが、概ね言いたいことはずれないので、よしなに斜め読みしていただけるとありがたいです。

季語の意味と背景

 季語の意味を端的に言えば、「秋に物思いにふけること」です。どうしてこれが秋の季語になるかというのは説明がなかなか難しいところですが、この季語もまた、起源を中国の古典世界に求めることができます。

 秋思  劉禹錫りゅううしゃく
古自り秋に逢うて 寂寥を悲しむむかしからあきになると、さみしくかなしいきもちになるものだという
我は言う 秋日 春朝に勝るとわたしは、あきのひるのほうがはるのあさよりよいとおもっている
晴空一鶴 雲を排して上るはれたあきのそらをいちわのつるが、くもをかきわけのぼっていく
便ち 詩情を引いて 碧霄に到るそれはひとのしごころをさそいながら、あおぞらにのぼりつめるようだ
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(白文)
自古逢秋悲寂寥
我言秋日勝春朝
晴空一鶴排雲上
便引詩情到碧霄

公益社団法人 関西詩吟文化協会 漢詩紹介のページを参照し、筆者が現代語訳

 秋になるとうら寂しい気持ちになることに理屈はなく、そういうものですよね、という出だしです。日の短さ、夜の長さ、気温や木々の色の変化など、寂しさの背景にはさまざまな理由があるはずですが、他の季節と比べても、ものを考えることに意識的になる感覚には、共感していただけるのではないでしょうか(秋の寂しさや物足りなさの中にも、充実感を感じられるような捉え方は、先週の三夕の歌の感覚ともつながっていますね)。

どんな物思いにふけるべきか……?

 この季語のコアの部分は「秋に物思いにふけること」なのですが、ではどのように俳句に落とし込めばいいのでしょうか。よくある作例はこんな感じ。下はダメな例です。

脳内をカンガルー跳ぶ秋思かな  若洲至

 「秋思」って概念の季語なんですよね。だから良くない言い方をすれば、眼の前に広がる事実を捉えるという、俳句の基本となるお作法を守らなくたって、句が成立する気がしてしまうのです。頭の中で考えたことを、そのままふんわりアウトプットして、「秋思かな」を付けると、なんとなく1句が成立する感じがしてしまう。そしてそのまま投句したり発表したりして、鳴かず飛ばずになる、というのが非常によくあるパターンです。

 しかし、物思いにふけること自体が季語であることは変えられない事実ですから、良い句を作るには何かしらを気をつけながら、物思いの俳句を詠むしかないでしょう。ではどうしたらよいのか。ここでポイントになるのは、実は「秋に」の部分です。

 先ほどの漢詩でも、秋になると……という季節の移ろいの表現が出だしでした。俳句でもこの季節感覚がとても重要です。

新書判ほどの秋思といふべしや  片山由美子
この秋思断つべく海に足濡らす   北澤瑞史

 現代の感覚でも比較的捉えやすい2句を引きました。1句目は「読書の秋」の感じがありますね。秋の夜長の空気感の中で、普段はあまり読まないジャンルである「新書」を手に取り、いつもはあまり考えないような(例えば)学問・現代のことに思いを巡らせる。そんな自分の姿をメタ的に捉えた俳句です。乾いた紙の白さが、薄暗い部屋の中に際立って見えてくるような視覚的効果もあります。

 2句目は秋の海辺を想像しながら読むと良いでしょう。少しでも晴れやかな気分になりたいと思って広々とした砂浜にやってきたこの人物。しかし夏のにぎやかな頃とは違い、秋の海岸には誰もいません。砂の上を一人で歩きながらも、あまり気分が変わらなかったのでしょう。冷たい海水に足を浸して、気分を一新したいと思ったようですが、秋思は果たして断たれたでしょうか。

 秋思という心の中を表した季語だからといって、どんな気持ちでも秋思にぴったり来るわけではありません。秋ならではの空気を句の全体にまとわせないと、読む側としては秋思の気分に納得感が生まれないように思います。

 実はこれと同じことは、「春愁しゅんしゅう」をはじめとする他の考え深める系季語でも意識できます。

ゑひの秋思

大崎に絶えて秋思の土埃   上原ゑみ
新しき街に秋思の木があまた  若洲至

 ゑひでも「秋思」という季語でどう詠むか、チャレンジしてみました。見かけ上、どちらも秋思の主体を「土埃」「木」というものに移していますね。この場合も、秋思の中にある=物思いにふけっているのは作者自身だと思って読んで差し支えありません。

 まずはどちらも、街の様子を大きく捉える景色の描き方をしています。ここから秋の澄んだ空をバックにした句であることをうかがい知ることができます。さらに「大崎」「土埃」「新しき街」「木」からは、無機質で乾燥した空間を想像できるかもしれません。このあたりのちょっと粗い画面のイメージが、荒涼とした秋の雰囲気とつながってくるのでは……ということで、最低限の季節感というラインをクリアしているとは思っています。それ以上の質については、筆者があれこれ言えませんけれども……。

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