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好きなデザイナーについて考えていたら、俳人の癖を自覚するに至った十数分間

惹かれてしまう――佐藤デザインとの出会い

 最近、ある企業でプロモーションに携わっている方から、街を歩いていると、どうしても広告のキャッチフレーズが気になってしまうという話を聞きました。半ば職業病のようなものかな、と思っていたらそうではなくて、学生やそれ以前のころからそうだったらしいのです。

 キャッチコピーを読んでいて「どうしてこのコピーにはここに読点(、)が入っているんだろう?」とか、「なぜこの言葉は漢字で書かれたんだろう?」とか。そういった表現の違いへの興味から大学の学部も選んだそうなので、そこに目が行ってしまうのは生来の特質なのでしょう。

 曲がりなりにも俳句に関わってきた身としては、助詞や助動詞の選択(「は」を使うか「が」を使うか)や、漢字にするか否かなどは、特に神経を使っているところですから、その話にはとても共感しました。「さくら」と書くか、「桜」と書くか、あるいは「櫻」と書くか、はたまた「サクラ」と書くかで、想起する情景は大きく変わってしまいます。表現したいものに対してもっとも適切な表記を使いたいと思うのは、恐らくマーケティングでも俳句でも同じだと感じました。

 さてそこでその方に、好きなコピーライターがいらっしゃるか質問してみたのですが、好き嫌いをライター軸で見たことはない、とのこと。確かにキャッチコピーを誰が作っているかは、よほどの有名人の作でないとわからないな、と思い直したのですが、好きなコピーをたどっていったら同じライターに行き当たった、みたいなことがあったら面白いなと思ったのです。というのも私の場合、デザイナーでそういうことが実際にあったものですから。

誰のデザイン?

 ひとつめは、10年ほど前に初めて見たロッテ「ACUO」のコマーシャル。記憶が曖昧ですが、確か俳優さんが電話ボックスに閉じ込められながら、ACUOを噛んでつかの間の解放感を得る、みたいな感じだったと思います。そしてパッケージには銀色の背景に喉の奥を表現したACUOの「O」の字。ガムの機能を直接訴えかけるのではなく、清涼感をこう表現するか、と驚きました。

 続いてコンビニエンスストア、ローソンのロゴ・ブランドデザイン。分銅型の見慣れた図形の中に、柔らかなフォントの「L」の文字を配したロゴです。コロナ禍のはじまりの頃、そのロゴが入ったポスターがあり、ローソンの紙カップコーヒーが、ソーシャルディスタンスをとって並んでいて、可愛らしいなと思いながら通り過ぎていたのが懐かしい。

 そして化粧品ブランド「THREE」の容器。発売後しばらく経ってから知ったものではありましたが、親しみやすさと洗練された印象が絶妙なラインで共存しています。化粧品のブランドも近年かなり増えた感じがしますが、新興メーカーのブランディングをひと足先取りしていたのではないかと思える、先進的なデザインです。

 誰のだろうこのデザイン、と思って関心を持って調べると、なんといずれもデザインオフィスnendoの佐藤オオキ (1977-) の手掛けたものでした。最近では東京2020オリンピックの聖火台や、ハンズ(旧:東急ハンズ)の新ロゴなどをデザインしています。食品、化粧品などのモノから工業製品、さらにはブランド全体まで幅広くデザインするのが佐藤の特徴で、多くのモノの色調や形状は、シンプルでありながら体温を感じさせ、愛着が湧くから不思議です。

佐藤デザインの「満点じゃない」感

 そんな佐藤のデザインに惹かれて、入手可能ないくつかを買ってみたことがあります。例えばこちらの手提げ袋。好きなデザイナーの手掛けたものを手に入れるのは、好きなアーティストのグッズを手に入れるのに近い喜びでした。

 こちら、普通の買い物袋と比べると底が浅く、持ち手はゴツい。喜びとともに使い始めたのですが……しかし。使ってみると、残念なことにあまり便利じゃありません

 持ち手と袋がつながっているため、上からの出し入れがしにくい。全体が浅いうえに、横に空いた出し入れのための穴が大きいので、重心が安定しないと、ものが落ちる。袋の材質がサラサラなので、中身が滑る……。狙って買った期待とは裏腹に、私の場合はせっかくの商品の価値を、充分堪能することができませんでした。

 こうした「あれっ?」という話は、佐藤デザインで何度か聞いたことがあります。タイのショッピングモールのフロアデザインも、施工後すぐに何らかの理由で再工事が入ったという噂。ふたつめのローソンのブランドデザインも、はじめの頃はユーザーから少なくない批判を受けていました。食品のパッケージをあらかたベージュに統一したことで、ぱっと見では商品ごとの識別がしづらくなり、不興を買ってしまった件です。よく考えてみれば、3つめの例として出した化粧水のパッケージデザインも、曲線や局面の多い家具の棚には収まりが悪そう。私は持っていませんが、使ってみると使いにくい可能性は十分あるなと思いました。

 もちろん製品や商品ですから、消費者としては一定の機能を求めて購入するわけで、それで「使いにくい」「買いにくい」のは致命的なミスのようにも思えます。では機能に問題があるからといって、そのデザインの生命は絶たれたことになるのか? そうでもないと、私は思います。

コンセプトと機能

 それは佐藤デザインが、既製品の持つ顕在・潜在的な課題を解決しようとしていたり、ささやかな遊び心を忍ばせ、先ほど述べた「愛着」をもたらそうとしていたりする、その過程や思想がなんとなく伝わり、それに共感できるからです。

 例えば先ほどの手提げ袋。コンセプトは「コンビニで買い物するとき用の手提げ袋」。底が浅いのは弁当などを平らに運ぶため。持ち手は収納ケースを兼ねていて、端についているダイヤルを回すとくるくると袋を仕舞えるという仕掛けなのです。用途は限定的に見えますが、考え抜かれたデザインなのです。思い出すと普通の手提げ袋を使ったとき、弁当を持ち運んだら縦になっちゃった……、みたいなことは皆さんにもあるんじゃないかと思います。エコバッグはかさばるし、畳むのが面倒。レジ袋は全部有料になってしまった。この袋はそんなタイムリーな問題を解決しようとして設計されたモノなのです。

 こうしたコンセプト自体が、従来の製品にある課題の発見になっているという点だけでも、大きな価値があるように思います。

 悲しいことに製品の場合は、どれだけコンセプトが良くても(使う人それぞれにとっての)良し悪しが一瞬で決まってしまいます。そして、使いにくい・気に入らないといったマイナスの評価を、そこからプラスへ動かすのは、そう簡単なことではないでしょう。しかし佐藤のブランドデザインでは、しっかりしたコンセプトを活かしつつ、そこから最終的なアウトプットを調整していくという局面に入っていきます。ローソンの食品パッケージの例では、識別性の低さを解決すべく、商品名とイラストを大きく配置するようマイナーチェンジを実施するなど、柔軟な対応が行われ、機能面の問題を解決しました。最終的なアウトプットに必ずしもこだわらない(ように私には見える)のも、佐藤の特徴のように思います。

 ちなみに、ローソンのブランドデザインの際には、「推し」のコンビニになる(ちょっと遠くてもローソンを選びたくなるような存在に)、というコンセプトがあったようです。「推し」という概念は、この2~3年で急速に浸透していますが、最近はコンビニにも「推し」を持つ人が増えているのではないでしょうか。はじめのアウトプットでは批判にさらされましたが、そんな社会的背景を先取りしていたと考えれば、中長期的には「愛着」のあるものづくり・ブランドデザインは、大きな役割を果たしていくと予想できます。だからこそ直近の「機能」だけでは価値を測りきれない。その裏にある「コンセプト」をデザインの価値判断から外すことは、個人的にはできません

個人的伝説番組「CREADIO」

 コンセプトはよしとして、それでも機能が……というのは承知の上なんですが、それはさておき、では「コンセプト」をどうやって知るのか? 私が佐藤デザインを好きでいられる理由は(あえて言えば)彼のコンセプトを彼の言葉で知ることができた、というところにあるでしょうか。

 以前東京のFM局であるJ-WAVEで、佐藤出演の「CREADIO」という番組が放送されていました。こちらは、佐藤が最近手掛けたデザインの背景を語ったり、海外出張に行ったときの交渉の一部を聞くことができたり、デザイナーの仕事や頭の中を、かなり生な状態で知ることができるものでした。仕事の中身を聞くと、アウトプットの製品だけではわからないことも多いんです。デザインは、外装や形状のほんの「お化粧」程度に捉えられがちですが、佐藤の場合は、企業などクライアントの問題意識や商品の最終目的に深く突っ込んで、それに彼なりの答えを出そうとしているのがなんとなく伝わり、それが形になったのが製品だ、というプロセスを知ることができたのです。

 それに、単純に話が面白かったというのも大きかった。30分番組の頃の一部がポッドキャストで配信されているので、ぜひ聞いてみてください。「世界的デザイナー」という触れ込みで紹介されることが多い佐藤ですが、番組の中での口癖は「……という気はしますけどね〜」。物腰が柔らかいので聞きやすいです。そんなキャラクターを知ると、さらに好感度が上がってしまいます。

 その人の姿や考え方を詳しく知ると、すべてが魅力的に感じられてしまうのは、アイドルもデザイナーも同じです。飼っている雑種犬とゆっくり散歩する日常や、番組内で食べる甘いものにテンションが上がっている様子を聞くと、親近感が湧いてしまいます。J-WAVEでデザイン系の著名人を起用した番組はいくつか放送されてきましたが、CREADIOのインプットの多さ(とユルさ)はなかなかのものでした。

 ラジオをきっかけに、著書も複数買いあさりまして、さらに深く佐藤の考え方に触れました。読んだ時点では関わりの薄かったビジネスの話も多かったですが、時を経て生活全般に活きるようになり、私の愛読書になったのがこちら。リンク先では本書の冒頭が読めるのでぜひ。

タイトル回収――結局何が俳人の癖なのか?

 さて、この文章のタイトルを「好きなデザイナーについて考えていたら、俳人の癖を自覚するに至った十数分間」としましたので、そろそろ回収します。まとめると、俳人の癖とは、キャラ読みコンセプト偏愛です。

キャラ読み

 ひとつめのキャラ読み。これは、好きな作家が作ったものを、どうしてもいいと感じてしまう、ということです。日常生活では全く問題ないんですが、創作に携わる人間としては由々しき問題です。

 芸術や創作の世界で大事なのは、当然、作ったものの質です。質にもいろいろな観点があって、表現の良し悪し、後で述べるコンセプト、社会的影響力などさまざまですが、とにかく出力されたもの自体が語る中身が一番大事なはずなんです。

 にも関わらず、先ほどの佐藤デザインの話では、作った人の人格の話を避けて通ることができませんでした。デザインなら製品、効果など、売ったり使ったりする人の感想が優先されるべきとは何度も書きましたが、それでも「推し」の感情が止められないのです。

 これは実は俳句でも同じです。俳句を頻繁に詠んでいる人の多くは(結構ちゃんとやっている人でも)「〜という俳人が好き」というのがまずあります。そこから個々の句の話をすることもありますが、少なくない人が、その好きな作者(俳人)の作風などの話にすぐ移るのです。これは、いかに俳句そのものだけで俳句の価値を決めるのが難しいかを間接的に示していると言っていいでしょう。つまり、キャラ読みしないと俳句を評価するのが極めて難しい、のです。その理由はズバリ、短すぎて俳句同士を区別するのが相当困難だから。この話、ゼロから始める短歌記録 Vol.1(下記リンク)でも話題にした「第二芸術論」でも重要な点なのですが、ここでは本筋から離れるので省きます。

コンセプト偏愛

 ふたつめのコンセプト偏愛。これは、作品の表現だけで評価を下すだけではなく、作るに至った背景や読もうとした風景や心象も、作品評価には多分に含まれている、ということです。これはどういうことか。

 例えば風景画を見ているとします。多くの場合キャンバスには、画家が心を動かされた美しい風景が広がっていることでしょう。そこには好みの差はあれど、優劣をつけることはできないはずです。つまり、一般的な理解として、良し悪しの判断は絵が上手いかや構図がどうかといった技巧の方にあります。

 一方俳句の場合は、よほどの初歩でない限り、句に詠まれた風景「こういうものを詠み込みました!」を考慮しないで評価することはできません。もちろん技巧も問われますが、詠み込んで表現しようとしたコンセプト自体も重要な評価点です。この理由は俳句の世界で言われる「俳味」の有無と密接に関わっていると考えられます。

 俳味とは、一番簡単に言えば作者の感じる面白みのこと。これには可笑しみのニュアンスが含まれています。あるものを取り上げたときのクスッと笑える感じや、こういうものを面白いと思うんだ自分は! という主張したさのような作家の自意識が、俳味という言葉にはあります。「俳」という字が、もともと「おどける」「たわむれる」という意味を持っていたことを考えると、納得できるかもしれません。

 意識下か無意識下かによらず、面白みやそれを伝えようとする自意識があってこそ俳句が生まれるのだとすれば、俳句を読み取るときに、その裏側にある作者の意識やコンセプトが気になるのは当然のこと。これがその句に合う技巧によって表現されたとき、いい俳句! と言いたくなるのです。むしろ表現や技巧がイマイチでも、コンセプトが良くて、とある俳句を好きになってしまう、ということもあります。


 キャラ読みしてしまうこと、そしてコンセプトを重んじてしまうことを内省した時、自分が俳句の考え方にかなり影響されていることに気づきまして、そこでふと「時計」を見ると、時間が進んでいました。佐藤オオキに影響を受けてミニマリスト志向の私が見たのは、スマートフォンの待ち受け画面でしたが。彼も腕時計はほぼしないそうですが、いつか佐藤オオキデザインの時計「10:10TEN : TEN」が欲しいなあ。

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