秋の本意(現代版)ーー秋の歌を巡ってーー【若洲日記3】
2024年9月の下旬の東京。長く厳しい残暑から一瞬にして25度を下回る秋の空気に変わった。気温のグラフを見ると、まるで崖のような気温変化に衣替えも追いつかず、体調も微妙な感じになってしまった。驚くようなスピードで一気に秋になった今年は、むしろ「秋だなあ」と感じやすい年とも言えるかもしれない。今回はそんなことを踏まえつつ現代的な「秋の本意」について書いてみることにする。糸口にするのはポップソングだ。
秋の歌を探せ
個人の感覚によるところもあるかもしれないが、春・夏・冬と比べると、ポップソングにおける秋の歌の存在感はやや希薄ではないだろうか。これはおそらく、人事の変化とイベントが少ないことが理由であろう。
年度末・年度初めにあたる春は、「出会い」「別れ」をテーマにした歌が多く思い浮かぶ。2000年代前半に押し寄せた桜ソングブームの中からでも、有名曲を5曲くらいは掘り起こせるだろうし、それ以前以降も同じテーマを持つ楽曲は数多くリリースされている。続いて長い休暇を擁する夏の曲は、特に海のレジャーのイメージとテンションの高さが特徴に違いない。「盛り上がる曲」となると、夏の印象を持つものが多いといって差し支えないだろう。代表曲に夏のイメージがあるサザンオールスターズや湘南乃風などは、そのグループ自体が夏の空気をまとっている感じさえ受ける。一方の冬はクリスマスと雪の存在が、特別感を醸し出す。明示的に冬の曲として主張していない曲の中にも、鐘や鈴の音だけで冬の感じを演出しているものある。そんな中「冬の女王」の異名を取る広瀬香美の真価は、特権的に夏の曲が持っていた盛り上がり要素を、冬の曲で堂々と成立させたことにあるのではないか、などと考えている(実際その前の曲がどうかは調べていないので、断言は控えておくことにする)。
ポップソングにおいて春・夏・冬が上記のような立ち位置を持つ中、秋はややふわっとした印象にとどまり、明確な「代表曲」を思い浮かべられなかった。暦の上での秋は、8月の初旬(立秋)から11月の初旬(立冬の前日)までになるが、学事歴では夏休みと2学期の連なりの中に含まれ、特に決まった人事的な出来事はない。また行事も、近年こそハロウィンが目立って行事化されているが、それ以外はお盆くらいのもので、楽しみ方や過ごし方があまり定まっていない。こうした秋の特徴が、おそらく秋の歌の存在感が薄さにつながっているのだろう。
秋の代表曲とは
そんな中、秋の曲に見いだせる共通イメージはどんなものだろうか。歌詞検索サイトで検索窓に「秋」と入れて調べてみた。
人気順1位は、コブクロの「赤い糸」だった。しかし歌詞の中の回想的部分の中に秋が含まれているだけで、秋の情感を歌ったものではなかった(文脈的にはおそらく春のイメージを持つ)。
1位から10位の曲を眺めたところ、「赤い糸」と同様、過ぎる季節の一つとして秋が登場する例が多かった。つまり、春夏秋冬の一つの流れとして扱われるのみで、秋の季節感を直に主題としたものは、「秋」を含む歌の上位には少なかったということだ。
ちなみに、季節の中で秋のみが登場した最上位曲は、いきものがかりの「YELL」だった。
俳句を作る観点からすると、「秋めく」は初秋の季語、「枯葉」「かじかむ」は冬の季語と、季語が入り乱れている状態が気になったりしないでもないが、曲の中での意味合いは平易だ。NHKの合唱コンクールの課題曲として書かれた背景もあり、若者の悩みや孤独感、ネガティブにもなる心のうちを、秋という季節感に仮託していると読むのが自然だろう。
秋の本意とは――三夕の歌――
ここでいきなりだが、日本古来の秋のイメージがどのようなものか、を理解しておくことにする。典拠として挙げてみるのは新古今和歌集から「三夕の歌」として知られる3首だ。
上の3首を三夕の歌としてまとめるのは、結びは「秋の夕暮れ」と共通すること、いずれも名歌として評判が高いことによる。いずれの歌も、同じような感慨を秋に抱いていることがうかがい知れる。
キーワードは、当然「寂しさ」となろう。カラフルな夏の風景が、徐々に暖色系そして進んでいく様子は、目を楽しませるものが減ることとして直感的に理解できる。ただし三夕の歌で重要なのは、寂しさを否定するばかりでない点だ。秋ならではの風景そのものに、中でも派手ではない特に雑然として美しさを見いだせないような風景の中にさえも、趣を見いだせることが、これらの和歌における秋の感慨の特徴といえるだろう。
現代的な秋の本意とは?
古典世界の秋の気分を把握したところで、時代と話題を現代に戻そう。改めて現代的な秋の感慨を、ポップソングから考えてみたい。秋を明示するものもしないものもあるが、秋という季節が歌の中で登場するとき、同時にどんな気分をまとっているだろうか? 秋という季節の進みに合わせて大きく2つに整理してみた。
夏の終わり・飽き
一つ目は、夏の終わりを象徴的に表すために、秋というワードを使っているパターン。夏の間にしたいこと、特に恋愛関係を対象とすることが主となろうが、それが実現できないままタイムリミットが迫ってしまうことを表現した代表例として「貴方の恋人になりたいのです(阿部真央、2009)」を引いた。
そして仮に実現できたとしても、それは「ひと夏の恋」として終わってしまう脆さをはらんでいる。「波乗りジョニー(桑田佳祐、2001)」は、1番こそ恋の始まりを疾走感とともに伝える、まさに夏ソングであるが、2番ではそれと対照的に「飽き」と掛詞的に秋というワードが用いられ、関係の終わりが示唆されている。コカ・コーラのCMのイメージもあり、夏の印象を残す曲ではあるが、ラストで「愛をもう一度/今、蘇る」と繰り返していることからも、回想としての一人語りであることが強く印象付けられるこの曲は、個人的には秋の歌だな、と感じる。
秋思・秋の愁い
さらに季節が進み、秋も深まっていくと、憂いの気分もまたより深くなっていく。愛する人との別れと片想い、共に自分だけではどうすることもできないものに対して思い悩んでしまう様は、秋特有の感慨のように思う。「M(PRINCESS PRINCESS、1988)」は、叙述の時間軸が秋とは定まらないが、出会った季節を秋に設定することで、名残惜しさや深い切なさを感じられる作りになっている。
俳句の世界には、こうした悩みの気分を捉えた季語として「秋思」がある。
この季語は、平たく言えば「秋に物思いにふけること」を意味している。秋の夜長の時間を持て余しつつ特にすることも定まらず、夏のポジティブさから落ち着いた景色に変化していく様を横目に、とりとめもなく思考を巡らせてしまうこの感覚。ポップソングにおいても、過去を振り返ったり、もはやなすすべのないものに対してあれこれと思い悩んでしまう。これこそが現代的な秋の季感と感じられよう。
思い悩む主題は恋愛だけにとどまらない。「秋桜(山口百恵、1977)では、母娘の重要な別れを描く季節として、「甲州街道はもう秋なのさ(RCサクセション、1976)」では、都会の諸々をなげうつような心持ちで車を走らせる、いわば厭世の行動に説得力をもたせる材料として、秋の季節感が効果的に用いられている。こうした、ときには苦しみを伴う幅広い悩みを、「秋思」という季語は包摂できる。実はこの感覚は、中国の古典世界から引き継がれているものでもある、時代普遍的なものでもある。上で挙げたような名曲は、いずれも秋思という季節の文脈の中に存在しているといえるだろう。
寂しさの肯定
以上で抽出した曲に偏りがあることは自覚しつつ、秋の歌の一つの否定しがたい側面として、「秋思」の感覚が存在することがわかった。時代や国境を超えて意識される感覚であるからこそ、それを踏まえて作られる作品が多くなるのも頷ける。ただ、途中で紹介した「三夕の歌」で見られたような寂しさの肯定のイメージは、現代の流行歌の中にはあまり多く見られないように思う。
そのような中、Perfumeの「マカロニ」は寂しさの肯定のニュアンスを踏まえた曲といえるのではないか。
1番歌詞を引いた。曲全体の中にも「秋」という言葉は含まれないが、「空が高い」というフレーズや(季語としては「天高し」)MVのイメージから、秋から冬にかけての曲の印象がある。
この曲の深い面白さの一つは、サビの最後「わからないことだらけ でも安心できるの」にある。普通、というか現代、未知や予測不可能性は大きなリスクであり、密接に関わるかもしれない人や場についてわからなければ、強くただならぬ不安の中に置かれていても不思議ではない。しかしその後その可能性を「でも安心できるの」ですべて否定するのだ。ここから「キミ」に対する好意や信頼の大きさを推し量ることができるのは言うまでもない。
なお、その前に置かれている「どれくらいの時間を」の疑問形から推測すると、「わからないことだらけ」が、「キミ」に対する主人公の理解ではなく、おそらく二人を取り巻く環境全てに対するものだと解釈することができる。すると間接的に、「あなたとわたし以外は不確定だけど、それでもいいよね」という形で、最小限の存在の確定だけを強く肯定する心持ちが浮かび上がる。この主人公が「寂しい」わけではないので、やや論としてのズレがあることは否めないが、存在しているもの自体のちょうどよさを良しとする姿勢は、シンプルでどこにでもある風景を美しいものとして捉えた、和歌の世界の秋の観念につながるものではないだろうか。