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ボロブドゥール ワイサック、友人との思い出 - インドネシア ジョグジャカルタ

某日、インドネシアはジョグジャカルタ郊外ボロブドゥールでの話。

Lampion naik ke langit sangat indah.
โคมลอยลอยขึ้นฟ้าสวยมากค่ะ

Waisak仏教大祭の日、友人と一緒にボロブドゥールでランタンを揚げた。

そのとき私は、結果1年と3ヶ月の長旅となったアジア旅行の最中で、友人は日本からインドネシアまで飛んできてくれたのだ。

ジャカルタで合流し、二人で列車に乗った。
ソロまで行ってあれこれ観光。ワイサックの日に、事前に申し込んでおいた式典参加のツアーでボロブドゥールを訪れた。

私たち二人の共通の友達が「行ってみたい」と言っていたボロブドゥール。
「よし!一緒に行こう!」と言っていたのに、その友達は死んだので、まあ、つまり一緒にいけなくなった。
それで、その彼女を、一緒に連れていくつもりで私たち二人がボロブドゥールを訪ねようということになったのだ。

昼間から、式典やら会場までの練り歩きやらで疲れ、夜ランタンを上げるまでにも会場整理のされていないところで待ち続けるのは本当にしんどかったが、ランタンが無数に浮かぶ空は美しく、「やり遂げた」感があった。

ランタンは、その輝きがもちろん美しいのだが、手から「すぅ」っと離れていく感じがなんともいえず、その瞬間も美しさの一つだと思う。
ゆっくりゆっくり離れていく。
一度手を離したらもう2度と手元には戻ってこない。

その儚さのようなものを感じて夜空を見上げると、きっと、魂が抜ける時の「ふわ」ってのはこんな感じだろ?と想像してしまう。

友人は突然死んだので、「もういないのだ」となかなか思うことができなかった。
なんだか、勝手に死んだ!という気持ちが抑えきれず、悲しいだけでなく腹も立っていた。
色々とモヤモヤしていたけれど、ランタンを上げたら、もう彼女は2度と戻ってこないのだと納得できた。
一緒にランタンを揚げた友人も「**さんが空に上がって行ったみたいだったね」といってた。

彼女はもういない。だからただ、私たちがそれをどう捉えるかそれだけだ。
亡くなってから月日は経っていたが、
私たちは、最終的に、私たちの心が安らぐ方法で彼女を弔った。
インドネシアで一緒にいてくれた友人にも感謝だ。
残された側の方が、多いと思える方がいい。

タイのロイクラトンの記事で、元々はブッダへの感謝を表すものだったという説明を読んだ気がするが、インドネシアでは「ブッダへのお手紙」のような表現がされていたと記憶している。

わたしはいつもこういう「お願い事」では世界平和を祈ることにしているので、その時も同じく「世界平和」とランタンに書いた。

彼女はといえば、いつも「家内安全」を祈っていた。
とんでもなくフットワークが軽い子で、ここ行きたいなあなんて口に出すとすぐ、「車出すよ!」と連れて行ってくれたなあ。
いろんなお寺やら博物館を一緒に回ったなあ。

彼女としかできない話がたくさんあったから、彼女がいなくなってしまってできない話がたくさんある。
納得がいっただなんて言ってもやっぱり、辛いものは辛い。

「いつでも心の中にいるよ!」といわれたら、一応「そうだね」とは返すけど、私のこの先の人生に、彼女はもう存在しないのだ。

それでも私は、たった一人残されたとしても800年生きたい「八百比丘尼ワナビー」なので、これからも楽しく生きていくよ。

チェンマイのランタン祭りもローカルな感じがすきだけど(ローカルな会場でしか揚げてないので)、ワイサックでのランタンあげは、宗教行事の雰囲気が厳かで胸にグッとくるものがある。この年は色々な行事に参加できて本当にいい思い出になった

勉強の記録

超使うのに日本では知られてない英語!【動詞編】

namedrop, humblebrag, catfish, friendzone, tailgate, badmouse, overshare, gaslight

gaslightはガスライティングとして知ってた(心理学?用語として)、badmouseとovershareとfriendzoneは予測はつくかな〜。

これは先生と一緒にみたんだけど、サムネイルに「ネイティブしかしらない」ってあるわけだし、「ならしらんわ!」「自分は使わんかな」って気持ちがあったのは確かだが、まあそれはさておき、名詞を動詞にして使うのが大好きなのでけっこう面白かった。


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