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誰もいなくても、「ご馳走様」を言える人
周りに誰もいなくても、
「いただきます。」
「ご馳走様でした。」
と言える人に悪い人はいない、という偏見を持っている。
その人の本質が出る時は、どんな時だろうか。
僕は
苦しい時と、誰もいない時
だと思う。
何か苦しんでいる時は自分のことしか考える余裕がないのが普通だ。
身体的、精神的、なんでもそうだと思う。
利他的になれるのは、自分が満ちている分を人に分けることが出来るとき。
太陽は、地球に恩恵を与えようとは思っていないけれど、結果的に影響を与えている。
まさに、自己中心的利他。
自分のやりたいこと、やっていることが、結果的にそのまま誰かの役に立っている。
だから苦しい時には自分の本質が出てくる。
自分の内から出てくるエネルギーで、二次的に利他になっている人は、苦しい時も変わらず行動できたりする。
しかし外部からエネルギーを貰おうとする(感謝、見返り、利益など)場合、それ自体が悪いわけでは全くないけれど、
苦しい時には自分を保ち続けるのは難しい。
これがGive&Takeの弊害だと思う。
Give&Takeはその裏に、「やった分は返ってくるだろう」という予測も含んでいる。
実際はどうだろうか。
与えた分が返ってくるなんてことは稀であり、それが期待となり、ストレスになっている人が、とても多いように感じる。
実際に世の中で心から幸せになっている人は、
「Give&Give&Give」
らしい。
その境地にいくには、どれくらいの人生経験や、深い洞察や、苦しみを乗り越えてきたのだろう。
ダイアモンドが磨かれれば磨かれるほど、輝くように、あらゆることにぶつかりながら、そうなってきたんだろう。
誰もいなくても、
「ご馳走様」と言える人
僕はこれができる人に、憧れる。
これが出来る人は
こうしなきゃいけないから、とか
誰かが見ているから、とか
作ってくれた人にいい思いをして欲しい
とか
そんなことを全く関係なくやれる人だと思う。
上記の理由は全く悪い理由じゃない。
でも、「ご馳走様」を言いたいから言う
というのは、異次元のように思う。
自分の信念がある。
何かを食べる時には感謝をする、そこまで深く考えなくても、そうした方が良いという信念を持っている。
そういう人は、感性として、
自分はこうしたい、こうした方がいいと思うという信念が、
結果的には誰かを喜ばせることに繋がる。
ということを無意識に理解していると思う。
それはまるで太陽のように。
これはただの僕の考えすぎかもしれない。
でもその人の感性は、そういう些細な、何でもない場面の、細部に宿ると思っている。
僕自身はどうだろうか。
一人でいる時に言った覚えがない。
ふと一人でいる時に、
「ご馳走様」と言ったことに気付けたら、
もし出会うことができたら、
その時は、自分の成長を実感できる日なのだろうと思う。