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「優」と「劣」


自分は「できる人間」になろうとしていた。
でもそれは違う気がする。
確かにそれまでの自分を変える、成長するのはとても大事。
でもやっぱり根本の部分、根は変わらないんじゃないか。

根が何かとなると難しいけど、人には生まれ持った特質、特性、特徴があると思う。
環境によっても変化するのは間違いないけど、
その変化も自分という存在を媒体として生じることであり、
この「自分」が変わる、他のものなら、
その変化も全員同じにならないことは想像できる。

「できる人間」を目指すというのは、
この「自分」を無視することのように思える。

自分の特性、特徴なりのやり方、考え方ではなく、
世の中で言われている凄いことや、ハウツーをできるようにする。
あるような、ないような理想
しかも誰かの理想、世の中での理想を追い求めるってのが
「できる人間」を目指していることだと思う。

そしてこの考え方が優劣の考えを反映してしまう。

自分より優れている人間を自分と重ねて苦しみ、
自分より劣っている人間を見て見下し、
自分が「できる」ということを実感する。

確かに目標を持ち、そのギャップに苦しむことは必ず悪いことかとなると、そうは思わない。
でも気になるのは「優」と「劣」だ。

何をもって優れているとし、劣っているとするのか。
様々な面があると思う。
対人スキル、コミュニケーション面もあるし、仕事の処理精度、速度もある。
もっと細かくしていけばキリがないかな。

結局世の中の基準があって、それより上か下か、
ってことなのだろうか。
そしたらこの「優」と「劣」は絶対的なものってより、
誰かの何かの基準によるものでしかないとも思う。

逆に本当に何もできないって人もいると思う。
自分の言っていることは、ただの理論のみで成立するキレイ事なのかもしれない。
でも僕は優劣で人を見たくない。

人間はそのような簡単なものじゃないって思える。
それぞれに魅力があって、それは一つの基準で量れるほど単純だとは思えない。

それは人がそれぞれ違うように、好みや基準も人それぞれ。
そしたらどんな人をいいと思い、また悪いと思うのか。
それだって様々すぎて分からない。

こう思うと優劣なんてものは、本来物凄く捉えようのない漠然としたものなんじゃないか。

言葉で表現しきれないことだって絶対ある。
言語をガッツリ学んでいるわけではないから、偉そうなことは言えない。

でも食べ物の味を言葉で表現したところで味わえないように、
人の魅力だって言葉では限界がある。

「美味しい」とか「まずい」しか伝えられないのかな。
もしかしたら「優」と「劣」も同じようなものなのかもしれない。

人によって感じ方も何を美味しい、まずいとするのかも人によって違う。
年齢でも国でも地域でも変わってくる。
もっと色々な要因、因子によって、人の基準は変わるんだ。

だから捉えようのない、漠然としたものになってしまうんだと思う。

自分は「できない人間」だと思っている。

だから色々苦しんでいる。
ふと思う。
「できない」から苦しむのかな。
「できない」ことをマイナスに捉えてしまうからこそ苦しむのかもしれない。
認知行動療法っぽいけど。

「できない」ってことを活用できないだろうか。
僕は世の中のだいたいが「できない人」だと思う。
この中で自分が打開策、工夫、少しでも気持ちが楽になれる方法を見つければ、
役に立てるのではないかと思う。

自分が苦しんでいるように、
たぶん誰かも自分と同じように苦しんでいる。
そんな人のためになれるかもしれない。
それは身近な人になるかもしれない。

「できない」を「できる」に塗り替えるんじゃなくて、
「できない」なりにどうすれば「うまくやれる」のかを模索していこうと思う。

自分を丸々変えてしまうようなイメージではなくて、
自分をどのように活用すればいいのか、
もっと楽しい方に考えていきたい。

僕は変わってるし、
人によっては嫌う。
たぶんそれでいい。


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