プロフィール
はじめに
皆さんこんにちは。
英語脳育成塾主席コーチ&英語ポジティブコーチのちよです。英語脳を育てる英語コーチをしています。
英語コーチって聞くとたぶん「小さいときから英語が好きだったんでしょう?」ってよく聞かれます。
ところが私は英語は大の苦手でした。大どころじゃなくてゼロに近いレベル。
中学でもいつも赤点、高校進学しても欠点ぎりぎり。英語なんてなくなればいいのに!って思っていたほどです。
そんな僕が、なぜ今英語のコーチをやっているのか?しかも「英語脳」ですよ!?赤点続きの僕が英語脳とはジョークとしか言いようがありませんが、OJTを含めると英語コーチとして約200名程度が語学研修を受講し指導してきました。ビジネス英語研修の受講生は、約500名でした。現役もプロとして多彩な場所で活動しています。
なんで英語コーチになったの?
どこで勉強したの?
いったい人生の中で何か起こったのか?
と疑問に思うかもしれませんよね。
まずはそのあたりからお話しようと思います。
1章 英語との出会いは”あの日から”
僕は兵庫県の神戸市で生まれ育ちました。父と母、3歳離れた弟の4人家族です。
父は食品メーカーに勤めていました。仕事は真面目で同僚からも信頼され、後輩の面倒もよくみるタイプでした。始発で出勤、付き合いで飲みにでることが多く、毎日のように朝帰りの日々。なので僕が中学に入るまでは父の顔をまともに覚えてない状態でした。
母は美容師をしていました。私には厳しい面もありましたが、明るい性格で笑顔の絶えない優しく、ごはんの時も、とても楽しいムードメーカーでした。
それと3歳年下の弟がいるのですが、僕とちがって性格が真面目でなんでもコツコツとするタイプ。よく一緒に遊んだりしてましたが、宿題をして遊ぶタイプだったんで、「こいつ、オレと違ってホンマに真面目やな」といつも思っていました。
英語はいつも赤点レベル
僕は、地元の小学校に進み、成績は普通でしたが、なにせわがままで、根っからのめんどくさがりな性格なんで、弟とちがい家に帰ってから宿題したことなんて記憶にありません(笑)。
成績は普通でしたが、中学生になると勉強もだんだん難しくなり、授業にもついていけなくなりました。特に英語は大の苦手で、アルファベットでさえまともに読めなかったので、テストはいつも10点以下。英語テストの最高得点は20点でした(笑)。
そんな感じで迎えた高校入試。家庭教師の先生につきっきりで勉強させられ、なんとかギリギリで入学できたっていうレベルでした。
高校生になってもまともに勉強もせず、将来について考えることもなく、夢も希望もまったくない青春時代を過ごしていました。
ただこんな僕でもボーイスカウトとクラシック音楽だけはずっとはまり、これだけはずっと辞めずに続きてきたんです。嫌いなものはまったく何もしないくせに、好きなものはとことんするタイプって感じでした。
この日からすべてが始まった
高校卒業後、浪人するも受験に失敗。翌年も受験失敗し、3年目の浪人生活を送っていた時に、あの出来事がきっかけで今後の人生が大きく変わっていくことになったのです。
神戸に住んでいたあの日、僕はまだ寝ていました。朝の6時前、突然地面かた叩きつけられるような揺れに襲われ、家具や壁が一瞬で崩れてきました。
気が付くと、あたりはすべて崩れ落ち、「一体何がどうなったのか」しばらく落ち着いて考えることができませんでした。
僕の家も全壊し、しばらくは小学校の体育館で避難生活を余儀なくされました。あとからわかったんですが、震災で家が崩れて下敷きになり、何人かの同級生も亡くなったと聞いたときはホンマにショックでした。
不思議だったのが、突然襲ってきた悲劇でさえ恐怖や不安もなく、「なにもかもなくなった」という事実を受け入れることができない状態だったのは覚えています。
僕は大学生でもなく、ただの浪人生であり、夢も希望もないニートだったんです。しかも今回の地震がダブルパンチとなり、今後はどうやって生きていけばいいのか、わからないまましばらく時間だけが過ぎていきました。
それから2か月が過ぎ、「これからどないしよう?」と思っていた時に知人からこんなことを言われました。
「オーストラリアに留学せーへん?」
「は・・?」
話を聞くと、ゴールドコーストの語学学校に行ったらどうかという話でした。
まさかの避難先は「オーストラリア」
それを聞いて両親に相談すると、父に言われました。
「お前は浪人の身やし、このまま日本にいてもやることない。オーストラリアに行ってちがう世界を見てこい!しっかり英語を勉強して来い」
僕は正直、英語も大っ嫌いやし、まったく勉強ができない男だったんであまり乗る気はしませんでした。でも今のままでいても、人生も変わることもなかったので、仕方なく言われるがまま、スーツケースを持って関西国際空港にいたのです。
別に英語を勉強したいという目的じゃなく、日本にいてもやることないのでオーストラリアに行くだけの人生の始まりでした。
何もかもわけがわからず、不安なまま飛行機に乗っていたのです。
2章 英語力”0”の海外生活スタート
ホームステイ先は超豪華
震災から逃げるようにたどり着いた地・オーストラリア。ここで僕のあてのない人生がスタートすることになりました。
しかも英語力はZERO。アルファベットがなんとか読める程度からのスタートでした。
最初の8か月はホームステイでした。受け入れてくれたファミリーは、バツイチ母のメイビス、長男のチェー、次男のボブの3人。そして愛犬マラブーがいました。名前だけはかろうじてメモに書いてもらって覚えました。外国人の受け入れにはかなり慣れている感じで、何もわからない僕を笑顔で受け入れてくれることになったのです。
そしてさらに驚いたことに家がほんとにデカい。
リバーフロントでプール付き、3台は駐車できるガレージもあり豪華な家での生活が始まりました。
この前まで家も崩れ、生活の基盤がすべてなくなった大都会から突然来た僕にとって信じられない生活空間が広がっていました。
でも僕はまったく英語ができずにボディーランゲージばかり。身振り手振りです。ごはんを食べるときも、散歩にいくときも、明日何時に起きるか聞かれても手で答えたり、笑ってごまかしたり、そんなことばかりしていたんです。
一番つらいのは「話せない」「書けない」「読めない」「聞けない」のすべてでした。まったく話にならないレベルだったので、ホームステイでの生活は楽しいようで、実は一番相手も僕も大変だったのかもしれません。
生活はホームステイ、昼間(9時~15時)は語学学校での生活でした。英語が全くできない外国人もいたため、第二言語学習法に基づいた教育システムを導入。英語の4技能(読む、聞く、書く、話す)を徹底して学ぶことから始まりました。
僕はもちろん一番下のレベル1からでした。アルファベットからいくんですよ。発音の仕方や基本単語の読み方まで基礎の基礎を徹底的に学んでいくことになったんです。
授業はゲームみたいなことしたり、動画見たりもしましたが、僕の他に他の学生もいたので楽しく勉強することができました。ちょうど同じクラスには韓国人、ロシア人、ブラジル人などがいました。
僕らは英語がまったくできない状態でしたが、すぐに打ち解けて彼らとすぐに仲良くなりました。
ロッカーで事件発生
そして英語を本気で勉強するきっかけとなったトラブルがあるんです。
学校近くのプールで泳いでいた時、プールから上がって帰ろうとしてロッカールームに行ったら、僕のロッカーが全開!
「あれ?なんでかな?」と思い、
いやな予感がして覗いてみると、財布がないことに気が付いたんです。
やられた! お金も全部取られた!
その瞬間どうしていいかわからず、気分喪失になりました。
神戸で地震が来ても大してビビることがなかった僕が、このときばかりは大パニック。慌てふためいたことを今でもはっきり覚えています。
泣きながら身振り手振りで監視員さんに財布がないことを伝えると、語学学校に連絡してもらい、英語のできる日本人に通訳してもらってクレジットカードの停止、各手続き、再発行などを手伝ってもらいました。
何とか被害を最小限度に食い止めることができたんですが、手伝ってくれた知らない日本人の方に心から感謝しました。そして日本にいる感覚で油断していたことを反省し、今後は気を付けることにしました。
このとき僕の気持ちに変化が生まれてきたのです。
日本で考えたこともなかったのに、
現地にきて泥棒にあって初めて「勉強せんと!」という気持ちが心の中から湧き上がってきたのです。
空手を英語で習いはじめる
ちょうどその頃、日本人同士のパーティーで会った人に英語がペラペラな日本人のビジネスマンと出会いました。
僕は同席して聞いてみたんです。
「どうやったら英語は話せるようになったんですか?」
彼は
「まずは日本語をいっさい話さない環境を作ることだよ。日本語で話す環境があると日本語に逃げてしまう。だからいつまでたっても英語が上達しないのさ。日本語を話さない環境をまず作りなさい」。
そう言って僕に「オーストラリアで英語で空手を教えている日本人がいるから習ってみるといい、まずはそこからだ」とアドバイスをいただき、英語で空手をしている教室に通うことになったんです。
道場にはオーストラリア人の他、他の国から移住してきた人も空手を習っていました。先生は日本人でしたが、説明はすべて英語。
でも僕は先生の簡単な英語さえ理解できなかったのです。
先生が、
「右手を出せ」と言っても、僕は「左手を出す」
「女性だけ一歩前へ」と言っても、僕も「前で出る」など
先生が「お前はオカマか!」と、
大笑いをされたりと毎回こんな感じでした。
みんなの前で恥かいたり、失敗したり、そんな毎日を繰り返してまで日本語を話さない環境を自分で作り出していったんです。
英語脳ってこうやってできる?
こんなことを繰り返す生活をしていると”ある変化”が起きてきました。
何度も同じことを英語で聞くようになるので、自分で聞いた「音」を
「モノ」でイメージできるようになってたんです。
例えば
・空手道場では決まったパターンで黙々と聞き、その通りを脳で判断して行動する。
・授業でも同じ単語の発音、アクセントを毎日聞きくことで脳が慣れ、簡単な行動はいちいち日本語に訳す必要がなく、行動できる。
みたいな
同じ言葉や習慣を形成していくとそのプロセスが脳を刺激し、徐々に変えていくという理論がありますが、それに近い感じでした。
特に学校の授業はレベル1だったので、早く脱したいという気持ちもあり、無我夢中で環境作りに徹しました。
「日本語は話さない」という日本語禁止令を自分自身でつくったわけです。
すると、日本語の環境を捨ててしまったため、日本語で訳すという行為そのものを脳が忘れ、無意識に脳が英語に育成され、自動的に反応していると気が付きました。
環境を変えて、意識を変えるだけで自分の脳ミソがこんな感じに無理やりなっていったわけです。
こういった環境で過ごしていると英語がみるみる上達していきました。
来た当初はレベル1でしたが、
半年後にはレベル4まで上達してました。
これには僕も正直、うれしかったです。
3章 英語脳での生活
語学学校卒業し大学へ進学
めきめきと英語を上達させた僕も、語学学校を卒業して大学に進学することになったのです。この時点でのレベルはIELTS6.5です
日本の大学は入学するまでが難しいです。もともと英語の4技能がIELTS6.5の脳力に達していれば簡単だと思います。このIELTS6.5のスコアはなかなか難しいです。なぜ、IELTSが難しいかというと、4技能(読む、書く、聞く、話す)の英語力が個別に試されます。その平均スコアがIELTSのスコアいわゆるOA(Over All)と呼びます。大学入学には、そのOA6.5必要です。英語脳力がなかった私には、オーストラリアの大学入学も難しかったです。
さらに、オーストラリアの大学は入学してからも難しいんです。もうそれはそれは無茶苦茶勉強しないと卒業できなくなるからです。
ある程度までレベルをあげた僕の英語力はさらにここから磨きをかけます。
こんなことをするようになりました↓↓↓
このような条件で毎日毎日くりかえすわけです。環境がそうなので、逃げられないですよね。最初は戸惑いましたが、途中からはまったくストレスなく、フツーにこなしてました。
そしてこれ↓↓を習慣にしたんです
しかもこれを朝4時~夜9時頃まで英語漬けの生活を4年間過ごすことになるわけです。
これ↑↑見てどう思います? 笑えますよね?
だって日本にいるときのアルファベットもまともに知らない浪人生だったわけですよ。現地にいけば普通になるのですが、今思えばすごい変化だなと改めて思います。
現地で彼女もできました。
僕が大学準備コースレベル3に通ってた時に、知人の紹介で知り合ったのがきっかけです。お互いの会話はもちろん英語。
彼女は英語が上手くはなかったものの、当時は僕もそこまで流暢ではなかったんです。でも、恋愛に英語の流暢は関係ないですよね(笑)
たまたま同じ大学に通う彼女だったので、カフェでいろいろ話しているうちに互いに外国語である英語を間違いを気にすることなく会話してました。
食事に行ったり、一緒に買い物したり、勉強したり、もう日本語などいちいち考えることもなく、英語がスラスラ出てくるんですよ。
なので海外で恋人を作るっていうのは、実は英語脳のスピーキング力が鍛えられ、英語上達にはもってこいなのかもしれません(笑)
そんな生活をしながら4年後、
そろそろ大学卒業のとき、僕の英語力はIELTSで8.5まで上がっていました。英検でいうと1級レベルです。アイエルツは満点が9点なので、完全マスターまであと一歩の状態です。
卒業後は現地で就職。その後、日本へ・・・
大学卒業して、現地のファンド会社に就職し、営業職につきました。
先輩やマネージャーには契約書の読み方、書き方、決算書の読み方、分析方法などのビジネスの基本を学ぶことになったんです。
仕事には結構厳しかったんですが、同僚はみな仲が良く楽しく働いていました。
そんなある日、
宮本輝氏の「花の降る午後」という本を読んでいると、神戸を舞台にした地元の地名や風景などが懐かしく浮かんできて、何かこみ上げるものがあったんです。
ここに来て僕は現地のオーストラリア人と何も変わらないものだと思っていましたが、やはり心は日本人のままなんだなとこの時感じました。
この本を読んでから、すっごい日本と地元神戸が懐かしくなり、
「日本に帰ろうかな」という気持ちが湧いてきたんです。
その気持ちを両親に相談すると、
「お前がそういう気持ちがあるなら、帰っておいで」
その父の温かい一言で僕の気持ちは決心がついたのです。
ここまでオーストラリアに来て10年が経っていました。
4章 10年ぶりの日本、再スタート・・
帰国して、京大大学院へ進学・・・
「あれから10年か・・・」
僕は再び、関西国際空港に降り立っていました。
帰国後、オーストラリアで猛勉強した甲斐もあり、見違えるぐらいに勉強好きになってて、いやむしろ勉強するのが楽しくなっていた。
まず日本でちょっと勉強したいことがあるので、一度進学する決心します。
「京都大学大学院エネルギー科学研究科」
テストの準備期間を1か月でしたが、図書館で毎日勉強しまくり、一発で合格。10年前の僕とはまったく考えられませんよね? だってどこも行くところがない浪人3年してして、夢もないニートだったんですよ。
今回は京大大学院に一発合格です!
もちろん素直にうれしかったですね。そして、これでもか!っていうぐらいに京大で勉強することになりました。とっても充実した時間でした。
大学院修了後は、マレーシアのコンサル会社に就職し、クアラルンプールで2年間、金融コンサルに携わることになります。
就職し海外出張三昧をする日々・・・離婚も経験
一旦就職すると、毎年のようにアジア諸国を中心に海外出張の日々が続きました。
面白かったのですが、結構激務で2~3年おきに社長から「行ってこい」って言われて。うまくいく仕事もありましたが、そうでないこともたくさんありました。
いろんな人との出会いもあり、結婚も経験しました。
ざっとこんな感じで海外をウロウロしては、現地の生活を家族とともにすることになるわけです。
こんな感じだったので、ついてくる家族は大変でした。
最初は我慢してついてきてくれましたが、あまりにも海外への出向・出張が多く、次第に家族とすごす時間も限られてきて、お互いに生活感のずれが生じ離婚も経験したのです。
コロナで仕事が一変・・・そして
2020年、この年から世界中を震撼させた
「新型コロナウィルス感染拡大」
海外出向に疲れ果てた僕は日本国内で転職が決まりバリバリ働いていた年でした。しかしコロナが発生して急な世界的な変化でもちろん僕の仕事も影響がでてきます。
海外事業の行き場を失い、事業も大幅に縮小へ。人々はみなマスクをし、ビジネスどころではない状態になりました。
辞めていく人も、コロナに感染して休職する人、自宅でリモートする人、どうしていいかわけのわからない人もたくさん社内にはいました。
どうしよう、これから・・・と思っていたとき、
ある地元の人からこんなこと言われたのです。
「英語教えてもらえませんか?」
英語は自分で使い、話してきただけのスキルだったので、
「人に教える」っていう考えはまったくなかったので、戸惑いました。
よく話を聞くと周りには
「英語ができなくて困っている」
「どうしたら話せるようになるのか」
「日本の英語力では使えない」
そんな人たちがたくさんいたことに気が付きました。
これまで僕は、自分のことや、ビジネスの成果しか考えていませんでした。
でもその結果、相次ぐ出向で生活はストレスだらけ。家族を困らせ離婚する始末。そして今回はコロナで事業も縮小し、収入も先が見えない状態。
そんな時に、英語を教えてほしいというたくさんの声を聞くと、
英語が話すようになるためにはどうしたらいいのかと困っている人が地元にもたくさんいたわけです。
僕の気持ちはこんなふうに変化してきました。
今までは「自分のこと」「ビジネスのことばかり考えてきた」
でも今からは、
人を育てたり、
僕の過去の経験を使って、
悩んでいる人たちを応援する
そんな仕事をしてもいいんじゃないか?!
という思いが強くなってきたんです。
英語脳育成塾の立ち上げ
僕はもともと大の英語嫌いでした。テストも毎回赤点続き。震災で海外に行くことになって苦労したけど、人よりも多くの失敗をしました。
そんな僕がある程度の期間で英語がわかるという状態になったのは、
徹底的に取り組んだ「コーチング」と「科学的な英語脳作り」だったわけです。
帰国して思ったことは、日本で教えている英語力は海外ではまったく使えない英語ばかり。受験やテストで点を取るだけの知識優先の英語。
これでは英語脳は全然できません。もちろん海外で仕事をするレベルにはほど遠いものになります。
そこで、
英語ゼロの僕がいかにして英語脳を作り上げてきたのかを振り返り、
この4つにこだわり、僕が過去の経験で学んだことをすべて織り込んだコーチングサービスをしよう!
これが「英語脳育成塾」の始まりなのです。
自分の塾の立ち上げはそう難しくはなかったですが、完全に日本語脳の受講生に英語脳の秘訣を教えることは、最初はなかなかうまくいきませんでした。
でも回数を重ね、僕が教えたことを信じて学んだ受講生は、だんだんと成果がでてくることに自信を持っていきました。
例えば、
今後はカリキュラムを増やし、地元のみならず全国でもオンライン受講できるようにしていきます。
5章 最後に
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
僕はもともと大の英語嫌いで、夢も希望もまったくない高校生でした。浪人しても行く当てもない状態、まぎれもなく人生をさまよっていたわけです。
そして運命で導かれたオーストラリアでの生活。そこで僕はゼロから人生がスタートしここまでたどり着きました。
この塾を通じてたくさんの人との出会い、ともに学びあう場であってほしいと切に願っています。
最後に、これまで支えてくれた家族、オーストラリアで出会った恩人マギー・グレイ教授には感謝の言葉しかありません。
また、現在のパートナーである、ジョン・チャンベル氏にもこの場をかりて感謝もうしあげます。