地図を広げて〈一話〉
俺の歳が片手で数えられるくらいに小さい頃、ばあちゃんが、一枚のでっかい地図を見せてくれたことを、今でもよく覚えている。
「えいちゃんには、行きたいところがあるかい?」
「うん! いっぱいあるよ! 絵本に出てきた、ドラゴンのいる島でしょう? それから、キラキラ輝く宝石がいっぱいの洞窟に、スズメのやってる郵便屋さんと、カエルのお遊戯会と…。」
「えいちゃんには、行きたい場所がたくさんあるんだねぇ。じゃあ、ばあちゃんの宝物を一つ、教えてあげようね。」
そう言って、よぼよぼとした足取りで階段を上り、カビ臭い押入れから取り出されたのは、古びて、端がボロボロになった、一枚の紙だった。
「これ、なぁに?」
「これはね、地図だよ。」
「ちず…って、道とか、幼稚園とか学校とか、おまわりさんのところとか…そういうのがいーっぱい書いてあるやつ?」
「そうだよ。でもね、この地図にはまだ、何も書かれていないんだ。開いてごらん。」
シミのような跡や、ところどころ虫に喰われたような穴が空いているだけで、その地図は確かに、幼稚園も、学校も、警察署も、道さえも書かれていない、ただの白紙だった。
「これじゃあさ、お絵かきの紙とおんなじだよ? だって、何も書いてないんだもん。」
「そうだね、これはお絵かきの紙と同じだね。でもね、これは地図なんだよ。何も書いていなくても、道が書かれていなくても、これは地図なんだ。」
「ふぅん。今日のばあちゃんのお話、難しくて分かんないね。」
「えいちゃんには少し早かったかな。じゃあもう少し大きくなったら、また地図のお話しをようねぇ。」
ばあちゃんは、俺とその話をする前に死んだ。俺が小学校に上がる、少し前だったと思う。幼稚園の卒園式には来てくれたばあちゃんが、小学校の入学式にはいなかったから、ばあちゃんが死んだ瞬間のことは覚えていないけど、ばあちゃんが死んだ時期についてはなんとなく、覚えている。
だから、俺は春になる度に思い出す。
ばあちゃんは俺に、何を話そうとしたんだろう、あの地図は一体、なんの地図だったんだろうって。
「永架(えいか)、早く起きてきなさい! 今日、部活なんでしょ?」
「んー…今日は休む。ばあちゃんの墓参り行くって言えば、顧問も怒んないし。」
「あら、そういえば、もうそんな時期だったかしらね。」
俺は、襟元のよれたTシャツに、ハーフパンツに着替える。
こんな服で墓参りなんて行ったら、ばあちゃん怒るかな。
怒るくらいなら、いつかの話の続きを聞かせてくれないだろうか。
そう思ったところで、ばあちゃんはもう、この世にはいない。
あの時はあんなに行きたかった、ドラゴンのいる世界なんて、初めからあるわけがない。
今の俺なら、どこへ行きたいと答えるだろう。
学校も、部活も、家族も、勉強も、何もかもを全部忘れて、本物の自由を全身で謳歌できる、そんな場所があるのなら、行きたいかもしれない。
我ながら、なんてつまらない答えなんだろう。子どもが大人に育っていくって、だんだんとつまらなくなっていくものなのだろうか。
ばあちゃんからもらったあの地図は、何故か、俺のクローゼットの片隅でずっと眠っている。きっと、幼い俺が欲しがったんだろうが、ばあちゃんが死んでから今まで、結局一度だってその地図を開くことはなかった。捨てはしなかったけれど、俺はばあちゃんみたいにものを大切にできないから、破けたところが広がっていたり、シミが増えていたり、カビ臭く…は元からか。
————開いてみようか。
この十数年、一度もそんな気持ちにならなかったのに、今日は何故か、開いてみようという気持ちになった。
だから開いた。するとそこには、地図が書かれていた。
道と、いくつかのお店と、それから、俺の住んでいる家。
俺はボロボロの地図を片手に家を飛び出して、走る。
『この先、ドラゴン島』
あった。あったぞ。
地図の通りに進むと、この地図の通りの場所がある。
見たことないくらいの大きな吊り橋を渡ってドラゴン島に踏み込むと、最近のゲームとは比べ物にならない迫力の、大きな赤いドラゴンが頭上を飛んで行った。
「本物だ…本物のドラゴンがいる…!」