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【昭和のスパルタ教育】小学生時代のスポ少がしばらくトラウマだった話

昭和のスポ少って厳しかったですよね。
あの謎に厳しい熱血指導にご経験のある方も多いかもしれません。
今回は私がスポ少時代に体験した辛かった思い出を吐き出してみます。よろしければご覧ください。


はじめに。スポーツ少年団とは

スポーツ少年団(スポーツしょうねんだん)とは、スポーツを通じて、青少年健全育成を目的とする社会教育団体。一般にスポーツ少年団とよばれる「単位団」と、その上位に位置する市町村スポーツ少年団、都道府県スポーツ少年団、および全国組織の日本スポーツ少年団からなる。

ウィキペディアより出典

スポ少は「学校帰りに通えるスポーツ系の習い事」として地域に根付き、保護者などから一定の信頼を得ていました。

私が現役だった1990年代は約100万人台の団員がいたようですが、少子化や習い事の多様化などに伴って徐々に数を減らし、コロナ明けの2022年度には、会員数が約68万人となっているそうです。

当時は公式・練習ともに白球でした。


入団のきっかけ

小学校4年生のとき、友達にスポ少のバレーボールに誘われて行ってみました。面白そうだったので、やってみることに。その友達は学業に専念するため辞めてしまったので、別の友達を誘って入団しました。

スケジュール

練習は学校の体育館で行われ、平日は放課後に週に1回か2回、週末は1回だったように思います。平日の夜は遅くまでやっていたので、帰ったらヘトヘトでお風呂と夕食で精一杯でした。
バレーがある日の学校の宿題は、翌朝五時半に母に起こしてもらってやりました。

毎週末のように練習試合があり、大会(なんとか杯的なもの)にもよく参加していました。夏休みなどの長期休みには合宿がありました。


当時の自分の実力

私は小学生の頃は背が低く、何より運動音痴だったのでバレーボールは下手でした。腕力が弱いのでアタックはヘロヘロになります。
また、レシーブに於いてもスライディングでボールを追いかける度胸が無く、遠くまで飛んで行って膝をつくようなレシーブができませんでした。

よって必然的に万年補欠で、最後の引退試合もベンチから応援。レギュラーには、後輩もいて辛かったけれど、スポーツの世界では実力主義なのは子どもながらに納得していました。

属していたチームは、地域では強豪でも弱小でもなく、そこそこには強かったので、Aチーム(1軍)とBチーム(2軍)がありました。
学年が上がると、Bチームの主将になりました。ポジションはセッター。
指の力が弱いのでオーバーハンドトスは苦手だったものの、アンダーで頑張りました。正攻法では勝てないので、2回目で返すフェイントが好きでした。

唯一得意だったのはサーブ。横打ちで、拳に力を込めてボールの正面をネットすれすれに打つ。すると、なぜかボールがうねる。相手が翻弄される。点が取れる。それが、嬉しかったです。


指導者と指導スタイル

監督とコーチが数名いました。彼らは昼間は仕事があり、監督は地元企業の社長で、コーチはその会社の従業員だったと聞きました。優しいコーチはいましたが、その人はあまり来ていませんでした。

監督は怖かったけど、怒る理由はシンプルでした。ミスをしたら怒鳴り、ミスの度合いによってデコピンや太もも叩きなど体罰のペナルティがありました。
太ももを蹴られたり、ほっぺたを平手打ちにされていたチームメイトもいたけれど、理由は思い出せません(今なら小学生女子によーやるわと思います)。
今の時代は体罰は認められていないと思いますが、恐ろしいことに昔はこういった指導という名の暴力が当たり前に行われていました。

私は、ある一人のコーチがめちゃくちゃ苦手でした。ヤンキー系で、当時不思議ちゃんだった私とソリが合わないうえに、私が下手くそだったのでミスをするとよく怒鳴られました。

ある日、派手にミスってしまい、そのコーチが鬼の形相で「何やらかしてるんじゃワレー?」というようなことを叫びながら私に近づいてきました。何度も顎を上下させて私を睨みあげたので、おそろしくてフリーズしました(これがメンチきるというやつか)。

とにかくいつも現場はピリついているし、指導者は怖いし、拘束時間は長いしで嫌々3年間過ごしていました。


トラウマになった最終試合

ある大会で試合に負けて終わり、それが6年生の最後の引退試合となりました。私はほぼベンチにいたので自分が出場していたかどうかは記憶が定かでありません。「やっと引退できる…」と言う気持ちでいっぱいでした。

最後に、監督が「みんなで握手をしよう」と言いました。子どもたちが列に並んで、順に監督やコーチたちと握手をしていきます。

私も握手をしていきました。しかし、例のヤンキーコーチの手が私の手に触れた瞬間、彼はさっと手を離しました。「握手したいのはオマエじゃない」と言わんばかりに、私を拒否するような態度に感じました。唐突に起こったこの出来事に、私は精神的にかなりのダメージを食らいました。レギュラーじゃなかったから?私のことが嫌いだから?原因は分かりませんが、とにかくショックでした。

それから数年間は、たまにヤンキーコーチの事を思い出してはモヤモヤしていました。中学生か高校生くらいの頃に、友達に「人生でかなり辛かった瞬間」として打ち明けましたが、あまりピンと来ていないようでした。それもそうでしょう。ただ、握手がマトモにできなかっただけなのだから。




結局、この3年間はなんだったのか?

スポ少自体は、親子ともに意欲的に参加する分には良い習い事でしょう。時間も労力も捧げる覚悟があるのなら。

私は当時の環境とはミスマッチでした(あの指導法自体どうかと思うが)。
なのになぜ、3年間も在籍していたのか。

入団自体は自分の意思とは言え、万年補欠で指導者はオラオラ系で、練習が憂鬱だった私を見て、母は、何も感じなかったのでしょうか。
家でだらだらしている私を厳しい指導者のもとで鍛えてもらいたかったのでしょうか。親だって、送迎や応援など大変だったはずです。
一度聞いてみましたが、何十年も昔の話なので母も思い出せないようです。

もちろん、悪いことばかりではありませんでした。試合でプレーがうまくいったり、仲間とワイワイする時間もありました。だから、「引退まで続けるもの」という固定観念を保ち続けたのだと思います。

子どもの頃の父の口癖は「仕事がつらい」でした。父もまた、自身とミスマッチな職場で二十代後半から定年を迎えるまで何十年も勤めていたのでした。
その父の背中を見て、私も我慢しなければならないと感じたのでしょうか。たった3年しか耐えていない私は甘いのかもしれません。
それでも、途中で辞めたいと言えば良かったし、親からも何らかの形でメンタル面でのサポートが欲しかった、と今では思います。


バレーボールの競技としての魅力

皮肉なことに、私は引退した後から背が伸び、経験者ということで体育の授業ではわりと活躍できたように思います。
バレーボールをすることは非常に楽しく、高校でのクラス対抗試合の時などは、クラスメイトの指導にあたることもありました。
社会人になっても友人と公園で遊ぶこともありましたし、今では子どもがバレーボールアニメ(「ハイキュー!」)にハマったので、「一緒に練習しよう!」と子ども用のバレーボールも買いました。
バレー自体は素晴らしいスポーツだと思います。


終わりに

もし、この先子どもが部活などで何かスポーツを始めたら…私のようにつらい思いはして欲しくありません。指導者との関係やチーム内でトラブルが起こり、子どもがSOSを出してくれたら、まずは親身に話を聞いてやりたいと思っています。最悪、環境が改善しなさそうなら辞めても良いとも…。

今回は、昔の辛かった出来事を記事にすることで、長年のモヤモヤした気持ちを成仏させていただきました。
ここまでお読みいただきまして、誠にありがとうございました!

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