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『思い出のマーニー』を読んで
オンラインで児童文学の読書会を、友人と二人で、毎月開催している。今回で25回目。今回のテーマ本はジブリ映画でもおなじみの『思い出のマーニー』。
私は、映画は観たことがあったけれど、原作を読んだのははじめてだった。映画の印象は「途中はなんだかよくわからない。でも「最後はああ、そういうことだったのか。」と合点がいく。」でも、やはり全体に、わかりにくい、という印象が強かったように思う。
さて。原作を読んでの感想。…読んでよかった。映画を観るだけで終わらせなくて本当によかった。
まず、原作を読んだ最初の感想は、ジブリ映画が、原作にとても忠実に映像化されていると感じたこと。もちろん、場所の設定が、イギリスから北海道に、登場人物たちはイギリス人から日本人に変えられている、などの細かい変更点はある。が、作品全体の大枠は変えることなく、原作の文章で理解しづらい風景や、人物像、情景が映像で補われていたように思う。
そして、読書会のよいところであり、悪いところでもあると思うが、1回さらっと読んだあと、当日までに2回目を読んだ。児童文学は基本的に子どもも楽しめる文学、ということだと思うが、子どもたちは、よほど気に入らない限り、同じ作品を短期間に2回、3回とじっくり「読み直す」ということはあまりしないのではないかと思う。
私も読書会があるから、この作品からなにを読み取るか、という視点で、もう一度「読み直す」という作業をしたのであって、読書会がなく、単に自分の楽しみのためだけだったら、2回目はなかったのかもしれない。
つまり、私の読みは「大人の読み」なのだと思う。
さて。私がこの作品を「読んでよかった」と思った理由を記録しておきたいと思う。
この『思い出のマーニー』は、現代の私たちが、探し求めてさまよい続けている「自己」を「肯定する力」を見つけ出す物語だと、私は思う。
「自己肯定感」については、前回のnoteにも書いたので、それに基づいて、ここでは「自己肯定感」は、「自己『の存在』を肯定すること」という私の定義にのっとっていきたい。つまり、この物語は、アンナが「自分の生きる場所を見つけ出す」「自分の輪を見つけてその中で生きていくことを決める」物語だと思った。
1.「屋敷」=アンナの心
マーニーもアンナも、自分は無条件に愛されているという実感がないまま思春期にさしかかっている。それは、実の両親から放っておかれているマーニーと、母にも祖母にも見捨てられ、養父母は自分をお金のために養っている、と感じているアンナ、二人の「自己の『存在』に対する肯定感」がとても低い状態であり、血のつながりと、この孤独感で二人は引き寄せあっている。
自分の居場所がどこにもないと思っていたアンナが「屋敷」を見た瞬間、「やっと見つけた、自分がずっとさがしていたものだ」と直感的に感じたことから、「屋敷」はずっと探していた「アンナ自身の心の中」を象徴しているのではないかと思う。まるで生きているような「屋敷」の描写は、心の中の自分が自分をじっと見つめている、そんな風にも読み取れる。
実際、光の加減で、一瞬「屋敷」が風景に溶け込んで、消えてなくなったように見えた場面では、アンナは激しく動揺し、「あれがないとしたら、もうなんにも、ーなんにも、この世に無事なものなんてありゃしない…。なにもかももう、さっぱりわけがわからない…」と思うほど、取り乱す。
アンナが最も恐れていること、それは「見捨てられること」である。それは幼少期の子どもの誰しもが無意識に恐れることであり、生命の危機、存在の危機に直結する。アンナの場合は、実際に見捨てられた過去があり、生命は養父母によって守られているが、心の存在が脅かされている、そんな中、「確かなもの」として、ずっとそこにあり続ける、「変わらないもの」として「屋敷」を見つけ出すのだ。
この「屋敷」にじっくり向き合うことができたのは、ペグ夫妻という、アンナを丸ごと受け入れてくれる「無条件の愛情」を注いでくれる存在があってこそ、である。ペグおばさんは、アンナを絶対に見捨てない。それは、物語中、アンナが何度問題行動を起こしても、いつも変わらない様子でいてくれることでわかる。アンナを丸ごと、受け入れている様子が繰り返し描かれる。
その「屋敷」の「裏側」でアンナはマーニーと出会い、二人は「同じ輪の中」にいると感じることで、はじめて「生きる喜び」を味わう。アンナは、自分がマーニーを必要とするのと同じくらい、マーニーが自分を必要としていることを実感する。つまり、「自分が生きていること、存在すること」がそのままだれかの「生きること」につながっている、という実感が、「自己の『存在』の肯定」となるのである。
それだけに、風車小屋での一件は、アンナにとって、最も恐れていた「見捨てられた」事件であり、「揺るがない」と信じていたマーニーとの結びつきが崩れ去ったことで、「自己の存在を肯定する理由に「他者」をよりどころにすることのもろさ」が、この事件によって露呈するのである。
この事件のあと、アンナは2日間、寝込む。そして、身体も心もまだ完全に回復していない状態で、マーニーへの怒りの気持ちを抱えたまま、「屋敷」の裏側へ行く。そこでマーニーを「許す」。
このマーニーを「許した」ことが、この物語の最も重要な分岐点だと私は感じた。激しい雨が降り、潮が満ちてきて、ふと、見上げると、そこは空っぽで、長い間空き家だったような「屋敷」をアンナは見るのだが、マーニーを「許した」瞬間、「屋敷の裏側」、つまりアンナの心の裏側は一旦、役目を果たし終えたのではないかと思う。
その後、涙と雨と潮で全身ずぶぬれになるアンナは「おぼれたくない」と思い、「だれでも、あたしにしたいことをすればいい。でも、あたしがおぼれたくないのに、あたしをおぼれさすことだけは、だれにもゆるせない。そんなこと、させない。あたしは、どうしても、そこまでたどりつかなくちゃー。』(『思い出のマーニー』下 p.35-36)と、必死に岸まで進もうとする。
つまり、ここでアンナは「生きること」を決意するのである。「生きようと自ら決めること」これこそ、「自己「の存在」を肯定する力」つまり「自己肯定感」を得ること、そのものなのではないだろうか。
そして、私は、これこそが、この物語のメインテーマなのではないかと思う。
それは、「誰かがわたしを必要としているから」という「他者」をよりどころにするのではなく、「自ら生きると決める」という「自己」をよりどころとした、「揺るがないもの」であり、「ずっと変わらずそこにあるもの」「自分の中にあるもの」として、アンナの心の中に形づくられたのである。
「自己の「存在」を肯定する力」が自分の中に出来上がってきたアンナは、もはや「屋敷の裏側」だけを見つめるのではなく、「屋敷の表側」つまり、自分の心の表側に目を向けることができるようになる。
それは、人や自分が生きるこの世界への信頼感にほかならない。「屋敷の裏側」(自分の心の土台)があってこその「屋敷の表側」(他者への信頼・自分が生きる世界への信頼感)。
「屋敷」の入り口が裏と表の両方にあるように、ものごとには、両側面があるということに気づき、養父母の愛情を素直に受け取ることができるようになり、表から「屋敷」に入ること、つまり、人と関わることができるようになる。
「屋敷」の裏側でマーニーと出会い、においや風、雨や湿り気を感じ、砂浜や草や石を踏んだり触ったりし、鳥や水の音を聞き、ペグおばさんの料理を食べ、思い切り寝て、喜びと同時に悲しみや苦しみ、いらだちを味わい、最後に、人を許す。
五感を思い切り使うこと、自然に身をゆだねることによって、おもいきり心を動かす。そして、無条件の愛情を感じる。これこそが、人が自己の存在を肯定的にとらえることができる、つまり「この世の中で生きていこうと思える」条件なのではないかと思う。
2.風車小屋事件
さて、この物語の最大の分岐点は、マーニーがアンナを風車小屋にひとりで置き去りにした事件だと思うのだが、一体この事件そのものは、なにを意味しているのだろう。
マーニーは、この風車小屋を極度に怖がり、近づこうとしない。しかし、それに対して、マーニーの将来の婚約者であるエドワードが、からかい、「その恐怖に勇敢に向かい合わなくてはいけない」と言ったことから、マーニーはひとりで風車小屋に行く。
私は、この風車小屋が「大人になること」の暗示のように感じた。
マーニーとアンナの間にエドワードという存在が入り込むようになってきてから、二人の関係は微妙に変化していく。そして、最後の決定的な別れは、そのエドワードによって引き起こされた。
エドワードは、アンナとマーニー、二人の女の子同士の友情の輪の中に少しずつ侵入してくる年上の異性であり、最終的にマーニーを輪の外へと連れ出していってしまうのだ。
つまり、これはマーニーの「子ども時代の終焉」なのではないだろうか。
実際、この事件後、マーニーは寄宿学校へとやられてしまい、アンナは二度とマーニーと会うことができなくなる。そして、マーニーは、のちに、ギリーさんが語るように、エドワードとの不運な結婚生活へと進んでいくのである。
しかし、このマーニーが大人になっていく、子ども時代と別れを告げることは、アンナにとっては必然だったのではないだろうか。
マーニーが大人になって、結婚しなければ、孫娘であるアンナは生まれてこないのである。
そして、この一件があってこそ、アンナはマーニーへの怒りの感情を爆発させることができ、その後の許しへとつながっていく。それは、のちに、病気になって、孫娘を置いていくことになる、祖母、マーニーへの許しと重なる。
この裏切り行為にも、実は両側面があって、のちに、ギリーさんの話から、アンナは、エドワードがマーニーを救出した時、マーニーが気を失っていた事実を知り、マーニーがわざとアンナを置き去りにしたのではない、ということがわかる。この事実を知ったアンナは、「自分の心が満ち足りている」のを感じる。
マーニーへの信頼は、回復したのである。それは同時に、自分を置いて病気で亡くなってしまった、祖母マーニーへの信頼回復なのである。マーニーの孤独な子ども時代に寄り添うことは、同時にアンナ自身の出生と幼少期、これまでの人生、そして自分が生きていくことへの肯定へとつながるのではないだろうか。
3.まとめ
アンナの心の在り様が、空や風、潮の満ち引き、屋敷の様子などに、投影され、描写されている作品であり、何度読んでもそのたびに新たな発見があるのではないかと思う。
マーニーとアンナのやり取りが、一体、現実に起きていることなのか、夢の中なのか、マーニーは、実際にいるのか、ゆうれいなどの実体のないものなのか、この境界線がはっきりしないことで、物語全体が不可解な印象を与えている。
が、それぞれの場面は、とても明確で、よみやすい。
「自己肯定感」がそこかしこで声高に求められる今だからこそ、「自己肯定感とはなにか」という命題を問い直す意味でも、じっくり読んでみると、深みのある作品だったと思う。
本を「じっくり読む」大切さを再認識した1冊だった。