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自由になるための探求活動 序章(わたしと演劇)

私が人生で一番自由を感じた瞬間は、とある舞台の上だ。

大学の授業でお世話になった舞台女優兼講師の人が主演をやる舞台に、端役ではあるが学生が数名出演できる機会が巡ってきたのだ。

演技なんてやったことないし、そもそもあがり症で、人前で何かをやることが苦手だったわたしはやんわりと断っていたのだが、
「舞台に立つなんて、人生でまたとない機会なんだからやりなよ~」と、先輩に唆され、「もう二度とないかもしれない機会」に弱いわたしは、押しに負けて、舞台に立つことになった。

練習中、「わたしだけが服を着ているみたいだ」と思うことがよくあった。

「こいつ下手だなって思われなくないな」とか、「台詞間違えたらどうしよう」とか、そんな自己保身的な自己検閲ばかりが頭をよぎり、自分という名の服を、練習中ずっと脱ぎ捨てられずにいた。

演じる役の人に失礼だとも思った。わたしはいつも、他者のことを考えているようで、実は自分の身を守るコミュニケーションをしてしまっているかもしれない。そんな認めたくはない自分自身のコミュニケーションの癖に気づき始めた。たとえ頭では分かっていても、身体は思うように動いてくれないことももどかしかった。

「とりあえず台詞さえ飛ばさなければ、演劇は続いていくはずだ」
わたしはそう思って、いつも台本に忠実な人間だった。

つまり、わかりやすく失敗することをとんでもなく恐れている人間だったのだ。失敗しないための準備はたくさんするので、あまり失敗らしい失敗をせずに生きてきた。一方で、予想外な状況に柔軟に対応したり、たとえ失敗だと思われる行為だとしても、リスクをとってチャレンジングな行動ができるひとが、とてもとてもまぶしかった。

そんななか迎えた本番。客席には観客がいて、役者たちも衣装をきて、照明などの演出も加わり、音楽は即興でその場の雰囲気に合わせてテンポや音量が変わっていくスタイル。

その日も同じように、台本に忠実にやるつもりだった。せめて他の人の演技を邪魔しない演技をしよう。そう思っていた。だが、本番特有の臨場感は想像以上だった。その熱量を受けて、音楽もどんどんと盛り上がっていく。

次の瞬間、わたしは台本にない台詞を口にしていた
本番の熱量を受け取ったわたしは、(あまり記憶にはないのだけど)「これは伝えなきゃ!」と思ったことを、思わず口に出してしまったのだ。

これまでの私からしたら失敗だ。そんな台詞は台本にないし、わたしがアドリブを言うことで、次の台詞のひとがびっくりして台詞を飛ばしてしまうリスクだってある。それでも、あの瞬間、自分の口から出た言葉のなかにわたしはおらず、たしかに役そのものとしてその場に立っていたと思う。

そして発した言葉を受けて、その台詞の温度感をのせたまま、舞台は問題なく、むしろより熱量を帯びて続いていった。気持ちよかった。嬉しかった。はじめてこれほどまでに何の検閲もなく言葉を発した気がした。信頼をもって仲間に身を委ねられた気がした。

「ああ、自由ってこういうことなのかもしれない。」

そう思った。19歳のときのことだった。

誰かを演じると、自分のコミュニケーションの在り方が怖いほど浮き彫りになる。自分の不自由さと自由の感覚を教えてくれた演劇に興味をもったきっかけであり、演劇から派生して、「場のちから」「即興性」「一回性」「偶然性」などのキーワードに関心を持つようになったきっかけでもあった。

今でもあのときの「自由」の感覚を頼りに生きている。

いまはカフェと本屋とコワーキングスペースが複合した施設の店長をしているが、きっとわたしは、「舞台」と「お店」を重ねて捉えているし、「自由」を感じたくて、感じて欲しくてお店に立っている

一緒に舞台の上に立っているひとを信頼して身を委ね、受け取りあいながら物語を続けていく。
それは、足を運んでくれるお客さんを信頼して身を委ねてみることだし、
相手の言動を受け取って、何かを共創していくこと。

そんな自由になるための探求活動を、自分なりのエッセンスとして、これからもお店に立ち続けていきたいと思う。



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