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水木しげるの戦争体験をなんとなくまとめた

水木しげる。漫画家である。もちろんそんなことは殆どの人が知っていると思う。
10年くらい前に死んじゃったなあとか朝ドラのゲゲゲの女房とかがあったなあとかが思い浮かぶ。と思う。

今回はKindleの自伝や漫画ラバウル戦記を読んだので水木しげるの人生を戦争経験主体でなんとなくまとめる。

水木しげるは1922年に鳥取県に生まれた。本名を武良 茂(むら しげる)という。
つまり水木しげるというのはペンネームというわけである。なんでも住んでたアパートかなんかの名前を漫画家仲間に水木んとこのしげるさんと呼ばれたところから始まったらしい。個人的には名前ではなく地名で呼ばれたりするのは必殺仕事人の中村主水が呼ばれている八丁堀のようでかっこいいと思われるが本人的には少し嫌だったらしい。

ペンネームの話は置いといて、水木の出自を書いていく。
まず5歳で「死」というものに興味を抱き、3歳の弟を池だか海だかに連れて行き溺れ死させようとした。幸いにも大人に見つかり未遂に終わり、水木本人はしこたま怒られて終わったらしい。なんとも奇妙な幼少期の話である。この水木の死生観は後に戦争に駆り出された時にまた再発し、ゲーテなど哲学書を読み耽るようになる。

また親から見てもなんか「変」な子供だったらしく、小学校入学を一年遅らせる判断に至ったという。おかげで体がデカく、頭は良くないがガキ大将的なポジションに収まった水木。楽しい少年時代を過ごす。

時代は進み日本は戦争へと突入した。
その頃水木は美術学校に入りたいがためにその受験資格を得る動機で園芸(?)学校に入学を目論む。
50人募集の51人入学希望だったために、いくらなんでもアホな自分でも入れると思っていたが落ちる。
志望動機を馬鹿正直に進学の踏み台のためと言い張ったからである。馬鹿である。ちなみに模範解答は「満州開拓隊に加わるためです」だそうである。
落ちた水木も水木だが、そのことを父親に正直に話したところ「よかった。そんなこと言って満州にお前を取られたら辛い」と父親は漏らす。
いくらダメな子供でも親は愛を持つのである。
しかし時は無常にも流れとうとう水木にも赤紙が来た。
もちろんノンキャリなので二等兵。上官からビンタの嵐であったという。水木はラッパ吹きに任命され日本の支部で予備兵として務めた。
ところがラッパは上手にならずしばかれまくり、配置転換を何度も願うようになる。
その結果行きたいのは「北か?南か?」と聞かれ日本内部の話だと勘違いしてしまい暖かい方がいいから南と答えラバウルに行かされることになる。
この時父親と二人並びの写真を撮る。軍服姿の息子と父親。父親は悲しい表情をしていた。

さて当時の南方戦線は壊滅的であった。現に水木が乗艦したボロボロの船を最後にラバウルについた船はなかった。全て魚雷にやられてしまったからだという。水木は自分が乗ってる船を狙ってくる魚雷が美しいだとかなんとか見惚れて他の兵士にポカリとやられた。

さてなんとかラバウルに着いた水木だが先述の通り水木たちが最後の増援である。よって永遠に新兵扱い。古兵にぶん殴られ続ける戦争生活が始まった。

最前線に行かされ見張りをしていたがあまりの美しい景色に仲間を起こすのを30分ほど遅らせてしまい、その頃には周りに来ていた敵兵にやられ仲間は全滅。水木は海に飛び込み服も銃も捨て敵兵と部族のゲリラから褌一丁で命からがら部隊に戻ると、なんでお前は生きて帰ってきたんだ死ねと言われる。これにはいくらマイペースな水木もひどい人間がいるもんだと憤慨した。心の中で。

その後爆撃で左腕を損傷。自分の血液型を忘れたものだから輸血ができずに腕を縛り上げる処置しかできず、結果麻酔なしでの切断。ただ本人は手術時に南方の悩みの種であるマラリアにかかっており、お陰であまり手術の痛みを感じなかったとのことであった。
傷病兵になったことでふらふらと散歩にでかても殆どお咎めなしになった水木。近くの部族のところに遊びに行きお互い拙い英語で聖書を教えたりタバコをパパイヤに換えてもらったり(一本で一個のレート)と交流を育む。部族に気に入られ自分専用の畑を拵えてもらったり、また部族が絶対に他の日本兵には教えないタバコの畑の場所を教えてもらい育った葉の下の方を貰ったりした。部族の人たちはタバコの葉が茎の上に生えているのが好きなようだが、水木本人は甘いから下側の葉が好きだったようである。その下葉をたくさんもらい兵隊仲間に分けたりした。
このようにふらふらと部族のところへ遊びに出かける部隊の規律を乱すような水木を問題視する上官もいたが、不思議と愛される性格のせいか必要以上に庇ってくれる上官もいた。

後に日本がポツダム宣言を受諾。日本に引き上げる時に部族の人に残れと言われ本人もその気になり現地除隊し残ろうとしたが、先述の庇ってくれた上官が「まあ一回帰ってから良く考えてくればええじゃないの」的なことを言ったので帰ることにする。
「10年でまた来るよ」「だめだ、3年で来い」「わかった、7年以内には来るよ」と言ったやりとりをし日本へ帰る。
しかし水木がまたラバウルへと戻れたのは26年も後のことであった。


ここまで書いて水木の人生23年間。濃い人生である。
その後水木は片腕であることのハンデを感じさせないような人生を送る。
いろいろな会社に勤めたりするがどれも長続きせず、学校も入ったり出たりと忙しい人生を送る。
借金付きのアパートを格安で買い借金を返しながらアパート経営をしたがこれも長続きせずに終わる。
絵を描く仕事は好きで続けていたが、紙芝居は時代と共に衰退。貸本も出版社が倒産。雑誌掲載の漫画家として食べていく。

この時に紙芝居で人気があった墓場鬼太郎を貸本の時にも描いた。後にゲゲゲの鬼太郎に改名しアニメ化し人気を博す。
この時の水木およそ四十代の歳の頃である。遅咲きである。

まだ水木の人生の半分もいっていないけど、もうおしまい。濃い人生の人だなあ。


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