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夢遊病の女 ─マリア・マリブラン─ 4/4

6- マリアの最期


ミラノのスカラ座でのシーズンを終え、マリアはベッリーニに捧げる特別公演をもって契約を完了させました。その後、パリへ向かい、以前の間違った結婚を無効にした判決からちょうど10ヶ月が経過したことで、ついに1836年、6年間の同棲期間を経て、シャルル・ド・ベリオとの正式な結婚をします。

シャルル・ド・ベリオ

その後、新婚夫婦はベルギーのイクセルで数日間の休息を取ったのち、ロンドンへ向かいました。5月10日に、ドゥルリー・レーン劇場で公演が予定されていたからです。
その後も公演やレセプション、コンサート、晩餐会が息つく暇もなく続いていきました。

結婚後すぐの7月のある朝、マリアはかねてからの情熱である乗馬を楽しもうと、友人たちとロンドン郊外での乗馬に参加しました。
しかし、不運なことに、彼女の馬が突然暴れ出し、猛スピードで駆け出してしまいます。マリアは必死に馬を制御しようとしましたがうまくいかず、落馬してしまったのです。
さらに不幸なことに、片足が鐙に引っかかったまま、暴走する馬に数メートル引きずられてしまいました。

ようやく馬が止められ、恐怖に凍りついた友人たちが駆け寄ります。マリアはなんとか自力で立ち上がりましたが、フラフラしていました。
しかし、友人からの助言や医師の治療を拒み、簡単な応急処置だけを受け、その夜にドゥルリー・レーンの舞台に立ったのです。

少しずつ彼女の体調は悪化していきました。全身の痛みを訴え、ひどい片頭痛に苦しみ、眠ることができません。
体力は次第に衰えていきますが、舞台に上がり続けました。
夫も医師たちも、彼女に本格的な休養をとるよう勧めましたが、マリアにはどうしても果たしたい約束がありました。

それは、マンチェスター・フェスティバルへの出演です。
このフェスティバルは、ヨーロッパ中の名歌手が集まる、ベルカントの祭典であり、彼女はすでにその舞台に立つことを決めていたのでした。
彼女は諦めたくなかった・・・いえ、諦めることができなかったのです。

マリア・マリブラン

こうしてマリアはマンチェスター・フェスティバルの開幕の夜に14曲を熱唱しました。翌朝のコンサートにも出演し、その夜もフェスティバルの舞台に立ちます。
彼女の声も体力も限界に近づいていました。それでも、マリアは舞台を放棄することを拒みました。

9月14日の夜、観客は割れんばかりの拍手とアンコールを求め、マリアはそれになんとか応じようとして、とうとう舞台上で倒れてしまったのです。

それ以降、マリアの命の灯はゆっくりと、しかし確実に消えゆくこととなりました。
瀉血の処置も、医師の診察も、薬も、彼女の身体にはもう何の効果もありませんでした。

1836年9月23日、マリア・マリブランは28歳という若さでこの世を去りました。ちょうどベッリーニが1年前の同じ日に亡くなり、「そう遠くないうちに、彼の後を追うことになるでしょう」と彼女が言った通りになってしまったのです。

7- マリアの気まぐれ


19世紀前半のマリア・マリブランの時代、興行主や歌手たちは上演するオペラに対し、自身で自由な改変を加えるのは常でした。
時には、異なる作曲家のオペラを融合させることさえあったといいます。
当の作曲家たちはこうした勝手な改変をもちろん好ましくは思っていませんでした。

特に、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの生涯にわたり台本を提供したフェリーチェ・ロマーニは、その傾向に批判的でした。
彼は1836年1月28日付の『ガゼッタ・ピエモンテーゼ』紙に寄稿し、『カプレーティ家とモンテッキ家』の上演におけるマリア・マリブランの解釈について次のように書いています。

フェリーチェ・ロマーニ

「このオペラはまたたく間に世界中で上演され、多くの著名な芸術家によって歌われた。そして、どこで上演されても観客を魅了した。
しかし、ある2人の友人――すなわち、“気まぐれ”さんと“マリブラン”さん──が、詩人と作曲家の作品を飾り立てたことで、もはや原型をとどめないほどに変わり果てたのだった。

”マリブラン”さんがある提案をすると、“気まぐれ”さんがそれを承認する。または、“気まぐれ”さんが新たな工夫を思いつくと、”マリブラン”さんがそれを採用する・・・という具合だ。
”マリブラン”さんは一方で自由に振る舞い、“気まぐれ”さんもまた好き勝手に動き回っている。

そしてついには、この2人の手によって、オペラはまるで見たこともない“ラグー・ソース”や“フリカッセ(フランスの煮込み料理)”のような奇妙な料理へと変貌を遂げてしまうのである」

それでもマリブランの”気まぐれ"に支配された観客たちは、舞台の魔性の歌姫に酔いしれ、彼女の提供する"ラグー・ソース"を味わいながら魅了されていたのでした。

8- マリブラン劇場


マリア・マリブランが滞在していたヴェネツィアのバルバリーゴ宮殿に、ある日、興行主ジョヴァンニ・ガッロが訪れました。
彼は小さな劇場を経営して大家族を養っていましたが、経済的に破綻寸前の状態だったのです。
万策尽きた彼は、著名なマリブランに助けを求めました。
2日間、彼の劇場で歌ってほしい、その報酬として、1公演3千フランを支払うと申し出ます。そして、彼女の出演によって借金を返済し、家族のために破産を免れたいという正直な思いを打ち明けたのです。

マリアはこの話に心を打たれ、快くガッロの申し出を受け入れました。
ところが、マリアとの契約をしていたヴェネツィアのラ・フェニーチェ劇場の経営陣がこれに反対します。
そこで妥協案が取られ、1日目にマリブランはラ・フェニーチェ劇場で『セビリアの理髪師』の舞台に立ち、その興行収入の一部をガッロに譲ることで合意が成立しました。

翌日には、ガッロの劇場でマリアは歌い、観客は感動と歓喜に包まれました。ガッロはマリアのおかげで4,125フランの利益を得ることができ、最初の約束通り3千フランをマリブランに支払おうとします。

しかし、マリアは驚くべき決断を下します。
彼女は、自身の報酬を一銭も受け取らず、そのすべての金額をガッロの借金返済に充てるようにと彼女から申し出たのです。
もしガッロがこの3千フランを彼女に支払ってしまうと、残った利益では借金を完済できず、結局は投獄されてしまうことが判明したからです。

マリブラン劇場

「あなたとご家族のためにどうぞ使ってください」
マリアのこの言葉と優しさに感激したガッロは、翌日、感謝の証として自身の劇場の名前を「マリブラン劇場」に改称しました。
そして彼の意志は、今日に至るまでヴェネツィアで尊重され続けています。
(マリブラン劇場は現在は映画館として運営)

(終)


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