わたしの十年に一度の本:20代編
学生時代、やや大き目な書店でアルバイトしていました。本屋で働いてる人はたいてい本が好きなんですが、読むジャンルは多岐にわたっています。小説が好きな人は多かったものの、やはり現代の国産小説を好きな人が多かったように思います。その当時、赤川次郎がちょうど今の東野圭吾のような立ち位置で、渡辺淳一、宮尾登美子、片岡義男なんかも売れてました。
中には輸入小説好きもいて、カフカとかキケロとかなんだか難しそうなのを読んでる人もいました。私は英文科だったこともあって英米の小説をよく読んでいました。J.D.サリンジャーは卒論のテーマにするくらい好きで、アーウィン・ショー、ポール・オースター、レイ・ブラッドベリなんかを読んでいたのです。
Tクンという同学年のアルバイトの子が私と好みが似ていて、上に挙げたもののほかにアーサー・C・クラークとかアラン・シリトーとか後にハルキさんが翻訳されるジョン・アービングなんかを教えてくれました。(クラークはちょっとお手上げでしたが…。)そんなTクンが村上春樹を推薦してくれたので、『風の歌を聴け』を読んでみたのです。
なんじゃ、こりゃ⁈
最初はエッセイかと思えたけど、やはり僕という一人称で語る主人公を中心とした小説のようです。ただ、映画を見ているみたいに場面が断片、断片で細切れになっていて、ストーリーが掴みにくい。それよりも文章が読み難い。そして、この本はもう何度も読んでいるのに
「こんな場面あったっけ?」
「こんな人、出てきたっけ?」
と、初めて出会ったような感覚に陥ります。
この小説が書かれた80年代は、バブルの予兆があって「24時間戦えますか?」なんて日本中が調子に乗っていたころ、おまけにハルキさん達団塊世代は我々しらけ世代からみたらすごく「青春」しているように見えたので、この脱力感は意外と新鮮だったように思えました。
この記事を書くに当たって、ぱらぱらと読み返してみたのですが、やはり「こんな場面あったっけ?」
と思ってしまいます。私が覚えているのは、僕と鼠とジェイがビールを飲みながらポツリポツリと何か語るくらいです。そして、最後に「風」が僕に直接何か語りかけたような気がしたのですが…読んでみると違いますね。ハルキさんの初期の小説って割とみんな似ていて、若い男の子と若い女の子がなんとなく一緒にいて、気のない会話をポツリポツリと交わす。だからほかの作品と混乱しているのかもしれません。
不思議と癖になるハルキ節
それで、ハルキさんの本を続けていくつか読んでみるうちに、慣れてくるのか読み難さがだんだん感じなくなって、むしろその独特のリズム(私はハルキ節と呼んでいるのですが)が、心地よくなって来るのです。後で聞いた話ですが、私のように翻訳小説を読み慣れている人にはハルキさんの文体は受け入れやすいんだそうです。
その当時、国産小説は龍サマ、潤サマ、治チャンといった、いわゆる文豪と呼ばれる人たちの作品は読んでいたのですが、現代作家のものは勝手にチャラいとか軽いと決めつけてあまり読んでいなかったのです。そういう意味で日本の現代作家の本を読むきっかけにもなった一冊でした。それから、それまでは小説はストーリーがすべて、ストーリーが面白ければいいと思っていましたが、これをきっかけに文体とか文章に注目するようにもなりました。
『風の歌を聴け』はほんとうに風みたいに内容とか感想が心に留まらないのです。そして何年かぶりに読み返して新しい発見があったり、新しい感慨がわいたりするのです。小説というより音楽を聴いてるような作品です。
私は基本的には本は文庫本を買うのですが、『蛍・納屋を焼く』から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』あたりのハルキさんの本は単行本で買っていたのです。なんだか文庫になる前に人より先に読みたいよう衝動に駆られていたのです。でも、『ノルウェーの森』で日本中が沸いたあたりから嫌いにはなってないけど、私のハルキ熱は冷めてしまい、他の本と同様文庫で買うようになりました。