宗教感というもの

コロナ騒動もだいぶ治まって来たようですが、感染が確認され始めた頃は、世界中がパニックに陥ったような騒ぎでした。中には冷静さを取り乱すような人も現れて、病気に感染する恐怖よりも、そういった人達と相対することのほうが気持ちが滅入るようでした。

じたばたしても死ぬときは死ぬんだから。
どんなに気をつけていても死ぬ人は死ぬんだし、
逆になにもしなくても生き永らえる人もいるんだから。

そんなことばを数人の人に言った覚えがあります。でも、それは藪蛇でしたね。そういう人は軽いパニックになっていて、言っても理解してもらえないどころか、私のことを冷たい人間だと評して終わりでした。

詰まるところ宗教感が乏しいのだな。

宗教感といっても仏教とかキリスト教といった特定の宗教を信仰することを言っているのではありません。確かに生活環境の中にお寺や教会との関わりがあったほうが宗教感は育まれるでしょうが、何の信仰も持っていない人でも立派に宗教感を持っている人もいるんです。

私は、すべての宗教に共通している、すべての宗教の果たすべく役割は、『人間は小さな存在である』とわからせることだと思います。そして、お寺や教会に行かなくても、親から子へ話す教訓の中や本の中にもそういった事柄が垣間見えているはずです。

現実的な教育しか受けてこなかった人は、人間を過大評価して人間は万能であると思い込んでしまう傾向にあるようです。だから万能であるべき人間ができないことに出会うとうろたえてしまうのでしょう。また、信仰を持たなくても農業や漁業など自然と向き合っている人達は、人間の力の及ばないことを身をもって知っていますが、人間の作った環境で人間だけを相手に暮らしていると、そういった感覚は育ちにくいのかもしれません。

長い人類の歴史の中でも、大きな災害が起こったり、疫病が流行ったりするのも人間の力には限界があることを天が知らしめているように思えます。いつ、どこで生まれて、いつ、どこで、どのように死んでいくのかは誰にも決めることが出来ません。それは天が決めることです。人間の力の及ばないことに思い煩っていても何にもなりません。それより今日やるべき勤めを果たして、今日も死なずに生きていられたことに感謝すれば、気持ちは楽になると思います。




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