「哲が句」を語る 「はじまり」について① 始まって終わるもの
まず問います。
この世にある、始まって終わるもの、何があるか思い浮かべてください。
今回は「セックス革命」に続く、第二の「革命」について述べます。
なお、「革命」というワーディングの不適切さは気にしていますが、分かりやすさと「乗り」優先です。
改めて申します。人間が今持つこの意識とか精神とかいうようなものを形成してくるために必要だった宇宙史上の3つの大事件(革命)について、前回からご説明しています。そのうちの2つめが今回のテーマです。
さて、もう一度問います。始まって終わるものって何があるでしょう。
世界の(宇宙の)中に、始まって終わるという形式を持つものは何があるか。
これは問いのようでいて、真っ当な問いでないことが見え透いている。
宇宙に、始まって終わるものはない、というのが答えだからだ。
「始まって終わるものはあるか」というのがストレートな問いだが、この問いは「それはないかもしれない」という考えを持ってのち初めてなしうる問いだ。だから普通の感覚で言えば「始まって終わるものは何か」と問うのが素直な問い方であると言える。
まず素直に問うてみよう。始まって終わるものは何か。
どこにもかしこにもうじゃうじゃあるではないか、と言われるかもしれない。
音楽、授業、一日、季節、景気、戦争、幸せ、友情…、思いつくまま挙げてもきりがない。意味もない。
何にせよ、始まって終わるように見えているのは、人間様の事情や都合で人間様の方から区切っているにすぎず、それ自体としてはじまりやおわりを持つものは何一つない。
冒頭で問うたように「この世にある、始まって終わるもの」は何か、という言い方をすれば、人間世界にあるもの、あるいは人間世界から見えるものをあれこれ挙げるのは自然だ。だがその自然さは人間世界の中で慣れ親しんでいるにすぎないものであって、人間世界から一歩外に出てみれば、実は異様なのだ。
「何事にもはじまりがありおわりがある」
これは人間の「四角い」世界の中だけで通用するものだ。四角い世界を一歩出ればまったく通用しない。(記事「哲が句を語る トライアル0 四角い世界」参照)
私が言っているのは、「はじまり」とか「おわり」とかいうものは、人間が作ったもの、あるいは人間が区切ったものだ、ということだ。そういう意味では、それほど変わったことを言っているわけではない。
だが、もう一歩、考えを進めてみたい。
それでは、「はじまり」とか「おわり」とかは、何なのか、なぜそのようなものがあるのか、それはどこから出てきたのか。
もう一度、初期の問いにもどってみよう。
「世界の(宇宙の)中に、始まって終わるという形式を持つものは何があるか。」
この問いに、いきなり「ない」と答えることには違和感を抱く人もいるのではないだろうか。私の邪推では、「世界の中に、宇宙の中に、自然の中に、ふつうに、はじまりやおわりというものがあるのではないか」と、なんとなく思っている人が決して少なくないのではないか。そこで改めて、この世界には本当に始まって終わるものはないのか、考えてみよう。
まず一番大枠から検討しよう。
すなわち「宇宙」そして「時間」
宇宙にはじまりはあるか。時間にはじまりはあるか。
だれも本当の正解は答えられないだろうが、どうやら宇宙や時間にははじまりがあると言われているようだ。だがこれらのはじまりを、同じ「はじまり」という語で他のもののはじまりと同列に語ることがふさわしいかどうか。また、これらが「(始まる)もの」という語で指すのがふさわしいかどうか、疑問がある。加えて、おわりの方はどうか。宇宙や時間におわりがあるか。これも明確に答えられる人はいないだろうが、どうやらおわりの方はないかもしれない。
いずれにしても、宇宙と時間に関しては確実な判断はできない。もしも宇宙や時間を取り上げて、始まって終わるものがありうるという議論を展開なさる方がいたら傾聴しよう。とりあえず、私の話の中では宇宙と時間は検討の対象外として棚上げしたい。
次に、人間が作ったり区切ったりしたものではなくて、はじまりやおわりを持ちそうなものの最有力なものについて考えたい。
「素粒子」
素粒子は生成したり消滅したりするそうだ。少なくとも宇宙が誕生してしばらくは素粒子はまだ生まれていなかったのだから、大きな意味で素粒子はすべてはじまりがある。また、粒子と反粒子が対消滅するようなことがあるのだから、終わることもある。
ただ、「カミオカンデ」は核子の崩壊を観察しようとして、ついに観察できなかったということだし、電子などは果たして崩壊するのかどうか分からない、といったことを読んだ記憶がある。素粒子は、「始まって終わるもの」としては大変有力だと思うが、正直なところその正体さえもつかむことができない。
私の能力ではこれ以上、正面から論ずることはできない。そこでここでは2つの点だけ述べて話を先に進めることにしたい。
まず、素粒子というものが、他のもろもろのものとは違って、果たして人間の側から区切ったり作り上げたものでないのかどうか。例えば、一日が始まって終わるのは、人間がそのように区切ったからにすぎない。「一日」というものがあらかじめ世界の中にあったのではなく、人間が都合や事情でそのように区切りたかっただけのものだ。朝・昼・夜・朝…とつながっているものを区切っただけのものだ。「素粒子」の場合、それと明らかに事情が異なると言えるかどうか、実はよくわからない。ただ、かつての人々は素粒子などというものがあることも知らなかったし、それが始まったり終わったりするなどと考えたこともなかった。知ってみたら、始まったり終わったりすることが分かった、という事情がある。だから人間の側からはじまりやおわりを区切ったものではないような気にさせる。それで私自身が勝手に特別扱いしているだけのような気もする。つまり素粒子も結局は、他のものと同じように、人間側の都合で区切っているだけなのかもしれない。
一方、やはり素粒子は世界(宇宙)自身が、人間が区切るのに先立って、「始まって終わるもの」という形式を持たせたような気もする。そうであれば、始まって終わるという形式は人間が存在するかどうかに関わらず、宇宙に備わっていることになる。その可能性は明確には否定しきれない気持ちが残る。そこで、それについては、その可能性を含めて別の記事で改めて取り上げることとして、ここではペンディングとしたい。
さて、その他さまざまな科学現象についても、人間に関わりなく始まって終わっているように見えるものはありそうだ。だが、その現象を「その現象」として区切っているのは人間の側の事情や都合である。その現象の定義が変われば区切りも変わる。世界や宇宙が区切っているのではない。
文章が長くなりました。
始まって終わるものが世界由来ではない、という話に終始してしまいました。
「第二の革命」の話まで進めませんでした。
続きは次の記事に回すことにします。
実のところ、文章にすると長くなってしまうので「哲が句」は短文にしたという経緯があったのですが。