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タイ人おじいちゃんのためにタクシーを呼んだ夜


 おじいちゃん救出クエストに遭遇した。ご家族に電話した時の「その人タイにいるはずなんです」と「ええ!?そこどこですか」が忘れられない。

 昨晩のことだ。テレワークを終えた19時40分、ご飯を買いに家を出た。マンションの共用部を抜けると、3分と経たずに違和感を覚えた。
 歩道と駐車スペースの境辺りに、蠢く影がある。ぱっと意識を向けると倒れた小さめのスーツケースが目に入った。さらに奥へ目を凝らすと、こちらに向いた人の顔と不器用に振られた腕がある。

 近づいてみると、細身のおじいちゃんだった。境目の小さな段差に躓いてそのまま、という感じ。
 構図的には『アズカバンの囚人』でナイトバスを呼んだハリー。ということは私はスタンか。
「大丈夫ですか?立てますか?お手伝いできることありますか?」
と声をかけながらも、疑問が浮かぶ。
 なんで自力で起き上がれないようなおじいちゃんがこんなところにいるんだろう。近所に住んでいるならばスーツケースはいらないはず。旅行なら誰かが付き添っているのが自然だろうし。
「起き上がれなくなっちゃったんだょnwarんrag」
と、私の耳にはこう入ってきた。こんなふうに聞き取れたというか、このくらいしか聞き取れなかったというか。7割方、うっかり徘徊してしまったご老人という予想が心を占める。残りは「これ警察案件か?」が2割、「タクシー代せびる詐欺だったら嫌だなあ」が2割、「さっさとご飯買いに行きたい」が1割くらい。

 細身のおじいちゃんが相手とはいえ、こちらはがりがりのもやしっこである。高校生の時ですら左の握力が30kgを切るエリートだ。デスクワークでさらに落ちた筋力では簡単に引き上げられない。
 重心が云々と思い浮かべながら、後ろに回って脇から抱え上げようと試みる。でも全然上がらない。とりあえず痛みやら出血の確認を兼ねて態勢を変えていたら、おじいちゃんのお尻の下から液体が溢れ出した。暗くてよくわからないが、黒っぽい液体がおじいちゃんから車道へ向かって流れる。
 暢気そうに話すのを前に、私だけさーっと血の気が引いていく。どきどきししながら何でもない顔を貫き、会話を続ける。若干焦りながら液体の正体と出所を探った。
 お尻に敷かれていたコンビニ袋から特徴的なペットボトルの形が浮き出ている。なるほど、さっきから「コーラで冷たい」みたいなこと言ってるのはこれか。救急でも介護でも無かった。少し息を吐く。

 その時ちょうど歩いてきたお兄さんと目が合った。「どうしたの?」と聴きながら期待通り手伝いに来てくれる。
 お兄さんはあっという間におじいちゃんを引き上げた。が、おじいちゃんは少しふらつく。さっきまでの問答を考えても一人で帰るのは難しいだろう。
 とりあえず巻き込まれ仲間のお兄さんにここまでのことを共有する。
 私も他人だということ。
 ぱっと見はケガがなさそうなこと。
 家族の電話番号はわかってそうなこと。
見解は一致して、家族宛に電話してもらうことにした。

 財布から取り出したメモを見せてもらうと、何かが引っかかった。
 一瞬フリーズする私を他所に、3行に並んだ番号の2つめを読み上げ始めた。一緒に指差しながらこちらも声に出して読み上げて、何回か復唱する。番号を入れ終えて通話ボタンを押したら、一旦おじいちゃんにスマホを預けた。
 電話はすぐにつながったようだ。けれども話が噛み合っていないように見える。隣からは聞き取れないが、電話の向こうは明らかに困惑している。説明が覚束ないのもあるが状況を全く飲み込めていない様子。「普段から徘徊していて、割とすぐに迎えが来る」線は捨てた方が良さそうだ。
 収集がつかなそうだったので電話を代わってもらう。相手はおじいちゃんより少し若いくらいのおばさんだった。

「すみません。電話代わりました。この電話の持ち主です」
「ええ…なんですか?どなたですか?」
「えーっと、道で転んでいたので起こすの手伝って、ふらふらしていたのでご家族に連絡入れた方が良いのかなと思ってかけたところで。」
「えー!?あー、そうなんですね。ありがとうございます。それで、今どちらにいるんでしょうか?」
「〇〇なんですけど。横浜からn駅の、XX交差点の近くです」
「ええ!?そこどこですか」
 どこですかと言われても、説明した通りである。この様子だと近所の徘徊おじいちゃんでないことは確かだ。
 相手の動揺が伝わってなのか、こちらもさっき以上にそわそわし始めた。
 もう一度繰り返す。
「あーなので。横浜駅から〇〇線でx駅の、7分くらい歩いたところです」
「ええ…なんでそこにいるんでしょう……。うち藤沢とか茅ヶ崎の方なんです」
「え、茅ヶ崎ですか?」
「そうです。だからなんで横浜の方にいるのか全然わからなくて」
 それはそうだ。でも私の方がわからない。
「茅ヶ崎の方だと1時間くらいかかりますよね。救急車とか警察呼んだ方が良いですか?」
「本人どんな感じですか?普通に歩いてます?
 あのその人ほんとはタイにいるはずなんです。連絡寄越す人じゃないからあれなんですけど」















 は?






 もう意味がわからなかった。ほんのり、薄々と東南アジアの方……?という気配はあった。聞き取れない言葉が混ざっていたり、コート着てても寒いのに薄いシャカシャカパーカー着てたりとか。
 そういえば「今日羽田から来たの」とか言ってた気もしてきた。
 それにメモの違和感も。電話番号の頭に081と書いていたのは、あれはタイからかけるためか。
 停止した頭に、おじいちゃんと電話相手の言葉がものすごい勢いで駆け巡る。走馬灯を見ている気分だ。
 スーツケースも、あれタイから来たってことなのか?でもそれにしては荷物が少なすぎるだろう。二拠点生活しててふらっと帰ってきたとか、2〜3日会いに来たとかそういうのじゃないわけで。
 もう意味わかんない。ぐっちゃぐちゃの頭で今の状況を整理する。

「ええっと。えー、あの、タイにいるはずの、お父さんが、こちらのご家族に言わないまま来ちゃったってことですか?
 しかも茅ヶ崎に向かうはずが横浜にいて、ご家族の方は今からこっちに来るのが難しそう。ってうーん、そういうことですか?」
「あーはい。ちょっとなんでいるのかはわからないんですけど、はい。そういうことになります。
 えーもうなんで来たんだろう」

 なんで来たんだろうじゃないのよ。私の衝撃はそんなもんじゃないのよ。なんでそんな人が駅からちょっと歩いた家の近くで転んでるのよ。どういう巡り合わせなのよ。

「あの、申し訳ないんですけど本人に藤沢か茅ヶ崎まで来れそうか確認してみてもらえませんか?大丈夫そうだったら駅まで案内していただけると」
「はあ。あの、一旦聞いてみます。」

 と、見ず知らずの方との電話が切れた。
 もう一人助けに入ってくれたお兄さんと作戦会議に入る。タイにいるはずで親戚は茅ヶ崎らしいと伝えた時のその絶句した表情、私もしてたんだろうなあ。

 駅に向かって歩き出したものの、どうみてもおじいちゃんの動きが怪しい。これ、一人で乗せるのは無理だろう。なんだかよろけてるし受け答え的に乗換がうまくいくとは到底思えない。普段からこうなのか、うーん年齢的には救急車呼んでも良いかもしれない。
 再び電話をかけ直し、状況を伝える。
「あの、先ほどの者ですけど」
「ああはい、ありがとうございます。どんな様子ですか?」
「駅に行こうとしてるんですけど、ちょっとふらふらしてる感じで。あの、電車乗っても乗換できないような気がするんですけど。
 あと、普段からこんな感じですか?一人で歩くの難しそうなんですけど」
「えー、あーそういう感じなんですね。じゃああの、電車難しいと思うので。
 たぶんタクシー乗るくらいのお金は持ってると思うのでタクシーに乗せてもらえませんか?
 ちょっと娘に代わって、本人説得してもらうので、茅ヶ崎駅まで乗せてもらえればその後引き取れるので」
「あーはい」
 ごそごそとノイズがして眉間に皺が寄る。
「もしもし」
「あーもしもし」
「電話代わりました。すみませんありがとうございます。今横浜であんまり歩けなさそうなんですよね。父にタクシーに乗るよう伝えるので、申し訳ありませんがそこまでお手伝いしていただけないでしょうか」

 30代くらいだろうか、少しハリと柔らかみのある丁寧な声だった。
 というか、勢いに飲まれて考えてなかったけれど、最初のお母さん割と図々しかったのではと思い始めた。迎えに来るのに1時間かかると言っても、こちらは赤の他人で既に30分近く付き合っている。駅まで迎えに行けるなら最初から「タクシー乗せて」で良かったじゃない。
「わかりました。じゃあ今からまた代わります」
「すみません。お願いします」
 「娘さんです」と伝えておじいちゃんにスマホを差し出す。何やら「おーゆりちゃん」とかなんとか言って、その日1番の笑顔で話し始めた。
 このおじいちゃんはずるい。たまに何を言っているかわからないし、今まさによくわからない状況を作り出している。けれどそれをひっくり返しかねない愛嬌がある。


 しばらく暇になるのでお兄さんに状況報告。タクシーに乗せる方針を聞いてほっとした様子。
「あんまり言うならねえ、と思ったけど。まあタクシーならいいか。
 じゃあ大丈夫そうだったら俺タクシー呼ぶんで」
 やっぱりあれは図々しい部類に片足突っ込んでたなと思い返す。この人もたぶんこれ以上巻き込まれるのはごめんだけど、それでも最後まで付き合う姿勢でいてくれる。


「はいはい、じゃあまた代わるから、はーい」
 とおじいちゃんにスマホを返される。
「もしもし」
「もしもし。すみません、父に伝わって、タクシーで茅ヶ崎まで来てもらうことになりました。」
「はーい、じゃあ乗るところまでやりますね」
「はい、申し訳ありません。ありがとうございます。
 あの、もしできればなんですが乗る時ドライバーの方にこの番号を伝えていただけないでしょうか。茅ヶ崎着く時に電話してもらえるようにお願いしていただけると」
「あーじゃあ乗る時に番号伝えてそのままかけてもらうので、その時相談してもらっても良いですか?」
「はい、すみませんそれで大丈夫です。すみません親切な方で助かりました。ありがとうございました。よろしくお願いします」


 その後は早かった。お兄さんにタクシーを呼んでもらうと、丁寧で優しいドライバーさんが来た。
 状況を説明するとすぐに電話して「ご家族とも話せました。では後はこちらで引き受けますので」と言ってくれた。ようやく胸でざわついていたものが大人しくなる。頼もしい限りだ。
 タクシーから「ありがとうね」と言いながら手を振り続けるおじいちゃんを見守って、お兄さんと「どこか行くところだったんですよね、変なところに巻き込まれましたねー」と笑って別れた。
 20時34分、ようやく買い出しに向かって歩き出す。同じ方向へ向かったタクシーもあっという間に見えなくなって、知らない車が通るばかりのいつもの道路が帰ってくる。ながら歩きで文章を打ち込み続ける私だけが残された。


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