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天才と呼ばれることに飽きた

神童も二十歳過ぎればただの人――

嫌味なことをいうが、私は「天才」「秀才」と呼ばれる事に飽きた。
世の中には本当に天性の能力を持った人がいると思う。私がその人達に並んでいるとは思わない。

だから飽きたのだ。
私は確かに人より話すのが上手だったり、書くのが上手だったり、観察が得意だったり色々得意なことはある。25歳になった今でもそう思う。
だが、私に使われる天才というのは、自分の理解が及ばない人をそうカテゴライズして片付ける便利なほめ言葉・「天才」だ。ちっとも嬉しくない。いや、言われたらその時はあざっす!というのだが。
「スーパーマーケットのバイトリーダー」という名誉職についている今、多くの正規雇用の方と一緒にお仕事させていただく機会がある。言ってしまえば圧倒的に私よりお金をもらっている人達と、だ。だが、その人たちと能力においてさほど差がないどころかむしろ私の方が上回っていると評する他者もある。

どうあっても不可能に近いような人員不足さえ、私の現場指揮にかかればたちまちクリアになる。大先輩であるはずの上司たちは私がみんなが使えないと見放すアルバイトを手足のように使って仕事を成功に導き、シフトで融通を利かせるので、「天才」「神様仏様」と私を崇める。

まあ、「天才」が本当に私の要素なのだとすれば、あながちこういうのは間違っていない。風雲児という言葉がある。時代を駆け抜けた英雄のことをよくこういうが、読んで字のごとく風のように雲のように消えていく人だ。私もそんな感じで、「やばい!」と誰もが思ったときにふうっ、と通って何事もなかったかのようにその場を平定してみせる「神風」なのかもしれない。

もっと給料の高い仕事があること、そこへのルートを知っていながら、「気が向かない」という理由だけで今の職に留まり続けるのだって、正気ではない。

さて、この記事は「私らしいはたらき方」というテーマで書いているのだが、意外とこのテーマは簡単ではない。というのも、そもそも「私らしい」とは何なのかということで朝五時まで飲み明かせそうなほど、深い話題でもあるからだ。

「らしさ」というのはぼんやりとした「雲」のようなものだと思う。
ある人に龍に見えるという雲があったとする。だが、それは人によっては「うんち」だと思うかもしれない。別の人にとっては雷だと思うかもしれない。それは、その雲にそれぞれが思う「〇〇らしさ」を見出したからということにほかならない。だが、もし雲に感情があったら、いや、自分は川のつもりなんですけど・・・と答えが返ってくるかもしれない。

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つまり「らしさ」というものは基本的に答えがないと言っていい。むしろ答えがないことが答えだろう。自分はこうありたいと思っているものが必ずしもその人らしさであるとは限らない。色々な「らしさ」を認められることが、多様性がある社会だと私は思う。

私はよく「素直じゃない」「可愛くない」「天邪鬼」と言われる。
まあ、多分それはよくない、正したいと思ってそういう事を言ってくるのだろうが、残念ながら私はそれで正されることはない。
だがこれは逆に言えば「周りに左右されない」ということである。今の私の職場は、

リーダー級の人間が集まっているが実際リーダーの立場にいるのは一番リーダーとしての能力が低い人(複雑)

という地獄のような状況なので分裂と衝突が頻繁に起こっている。

そういうところでは、私のように周りに左右されずに淡々とできないことを切り捨て、やるべきことを明確にし、同僚のアルバイトたちを統率する存在は貴重というほかない。「周りに合わせない」という私らしさが生み出している強みだ。やれやれ、と言いながら颯爽と現れて、店を閉めて帰っていく。私がパズドラにいたら、風属性になること間違いない。(風属性ってなかった気がするが気にしない)

正直、日本は働かなくてもどうにかなる仕組みになっている。
頑張って働いている一部の人よりも生活保護の人のほうがなんかお金もらってね?という闇の深い話もある。

私は「生きるために働く」というのが軸としてある。それでいくと、フルで働く必要は現状ない。私は自分のマネジメント能力の実験場として今の職場を有効に活用し、仕事が終わったら菓子パンを食いながら生配信を見て寝る。普通に楽しい。
仕事のために仕事をするという人もいるだろうが、私はそうではない。バイトを続けているのも、フルを戦い抜く体力がないからだ。
なんなら、「現場の天才」であり続けるためには、体力面=精神面の余裕がなければいけないので、長時間働いてはいけないのだ。

私は「天才」と呼ばれることに飽きたと書いた。ずいぶんとひねくれている。自分を片付けている言葉、ととっていると上では述べたが、それは私を「他と違う」という風に認識してくれる言葉ととることもできる。

つまり、私が「天才」であり続けたいと思ったら、ずっとこの土俵で戦えばいいのだ。入ってくるアルバイトは基本年下だし、俺TUEEE状態がずっと続いていく。また仕事柄若い女の子が入ってくる可能性が高いので、さながら異世界転生の主人公だ。
古株になればなるほど、転勤してくる上司も私の気を遣うようになる。ここまでくるともう無双状態。スターをとったマリオ。キャンディをとったカービィだ。APEXでいえば最初から金アーマーがあるみたいな感じだ。強い。

て、結局、「天才と呼ばれること嬉しいんじゃん」と思ったそこのあなた。
正解だ。この記事はツンデレの記事だ。ツンデレもまた私の要素だ。多分。

今まで何人もの上司とお仕事をさせていただいたが、私は(体力面を除けば)その人達に能力でひけをとるとは思わない。だが、その人達と同じ舞台にたってしまったら、「天才」ではなくなる。優秀かもしれないが、私より優秀な人はたくさんいる。ここで、冒頭のフラグを回収する。

神童も二十歳過ぎればただの人・・・

だったら、一生子供だったら、神童であり続けられるのではないか。

ちょっとマニアックな話になるが、「パワポケ」というゲームのキャラクターに「グントラム」というキャラクターが出てくる。狼男みたいなキャラクターなのだが、「賢い犬は獲物を狩りつくさない」という台詞を吐く。どちゃくそこのキャラが好きだ。私の行動原理もこれに近い。

スーパーマンは「悪役」がいてスーパーマンであれる。無名な人がたくさんいるから、有名人という存在がいる。同じことだ。周りが優秀でないおかげで私は天才の名をほしいままにできる。それでいいのか?と言われそうだがこれでいいのだ。そっちのほうが私はお金より価値があると思っているし、何より今はそれが許される時代なのだ。

ただ、もしも。
何か、「次のキャリア」「別のはたらき方」に挑戦できるとすれば、私は確実に海外に行ってみたいと言う。海外のスーパーに行ってみたい。
可能であれば、全く考え方、背景の違う人達に、自分のマネジメント能力が通用するかどうか試してみたい。

それか、こういうものを書くお仕事なんかができたらいいのかな、とも思う。
これをメインにして、というのは想像つかないのだが。とはいえ、25歳だから、まだまだこれからだ。

当たり前のことだが、マネジメントにおいて大切なことは「人を大切にすること」だ。何気ない世間話を無駄だと切り捨てるようになったらそれはもう合理主義者とは言わないというのが私の持論だ。何気ないところから信頼が生まれ、助け合いに繋がる。

そんなことを考えながら今日も私は現場に風を吹かせる。
いつか、私を知る人がうちのスーパーに来た時、あれ?今一瞬くろうさぎさんの匂いがしたような・・・と思う事があるかもしれない。風みたいな存在っていうのも、かっこいいんじゃないか。


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