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数字、キリスト、今、差別。

最近やたらと「差別」をテーマにしたニュース記事やバズってるツイートを見る事が増えた気がする。多分、気がするだけなのだが。ということで今回のテーマは「差別」だ。書いている途中に気になる事件が起こったので、それも追加しておいた。

現代はなんでも数字数字と

フランスのスポーツ選手がアジア人を暗に中傷するようなことを言っているとか言っていないとかで揉めているのが記憶に新しい。最近知ったのだが、「インディアン」という言葉も差別用語とされることがあるそうだ。いやはや、すごい時代だなあと思っている。

差別っていうのは、「自分らしさとは何か」みたいなことにも通ずるテーマだと思っている。自分は何人だとか、どういう性的傾向を持っているかとか、そういう「数字で測れないもの」を扱っているからだ。例えば日本人がアメリカで長年過ごしていてずっと住むことになり、国籍が途中でアメリカになったとする。この人は、記録上はアメリカ人だが、本人としては「便宜上アメリカ国籍をとる必要があったが心は生涯日本人」と思っているかもしれない。これを、他人がどうこういうのは違うだろう。心の問題というか、思いの問題だからだ。

ただ、今盛り上がっている五輪を見てもそうだが、みんなどこかで「日本代表」を応援しているのではないだろうか。正直、その時点で私は差別なんてものはなくならないと思っている。

差別をしているのは何もフランス人だけではない。何なら全世界の人間の誰もが差別をする可能性を持っているし、その権利すらあると言ってもいいかもしれない。話す能力表現する能力があれば、誰でもいつでもどこでも差別的な事をすることはできる。だから、例え日本選手がどれだけ差別を持たず正々堂々と戦うとしても、他国の人による差別にさらされる可能性は十分にある。じゃあ、その時どういう反応をするかというと、それを見聞きした人は「〇〇人が差別をした」と受け取ることが多いのではないだろうか?

〇〇人という言葉は、主語が大きすぎる。日本人にだって九分九厘差別感情の強い人間はいるが、その一部の人間をとりあげて「日本人は差別的」とひとくくりにされれば怒りを感じる人が現れることは想像に難くない。

現代はとにかく数字で測る時代だ。それがいけないとかいうんではないが、合理的にとか効率的にっていうことを考えると、人間の心ほど「処理の難しい情報」っていうのはない。Youtubeの配信を見ていても、どうしても「スーパーチャットの金額大きさ」「チャンネル登録者」「再生数」。数字に目がいく。

昔、イエスキリストという偉人がいたのだが、あの人は少額の寄付をするやもめを高く評価したという記述がある(マルコ12章を参照)。今で言ったら、5万円のスパチャ(投げ銭)よりも120円のスパチャを評価するみたいなものだ。これについても、結局のところ「心の問題」という側面が強い。お金がないけど自分の出せるものを頑張ってだしました!という「姿勢」が評価された、というお話なのだが、イエスの生きていた当時でさえ金額の多寡に目がいくのだから、経済がどうとか市場がどうとか言われる現代ならなおのこと、数字に目がいくのではないかと思う。

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「幸福度ランキングが日本は低い」とかいうが、何を言ってるんだ?と私は思っている。そもそも、幸福度なんてものに数字をあてがおうとしてる時点で私は現代は異常な側面があると思う。最近は「顔面偏差値」という言葉を人に使うのを見るがこれも馬鹿じゃないかと思う。まあ遊びの一環としての表現だとは思うが、そんなものあるわけない。可愛いと思えば可愛いのだ。かっこいいと思えばかっこいいのだ。それ以上でもそれ以下でもないのだが、どうしてか「数字」を気にする。スーパーに勤めていると特に感じるが、食品に少しでも傷が入ったり傷んでいたりしたら売り物にならないからといって「廃棄」になる。本体ならともかくパッケージが傷んでいても捨てられることさえある。形の悪いものは売り物にならないという。そして、誰かが一生懸命作った野菜も、卵も、商品も全て「数字」に見えてくる。何ならお客さんさえも、だ。

とにかく、現代を生きる私たちは「情報」とか「数字」というものを大事にする。大事にするどころか、それらに翻弄されている気すらする。何とは言わないが感染者の数だって、「東京5千人とかマジでやばい」という。確かにそう思うし実際現場はやばい事になってるだろうが、正直何人だろうが大変な事は変わらないんだから、SNSで喋るヒマがあったら何か役立つことを探したほうがまだ・・・と思わないでもない。

最初に述べた「他国の人が差別をしたら差別にさらされる」というやつだが、あれも実を言えば怪しいところがある。要は差別をどこで知るかだ。多くがメディアだろう。メディアというのは正義で生計を立ててるわけじゃないから、嘘だって平気で書く。売れないと、見られないと意味がない。だから、実際は書いてる人が差別感情を持っているかどうかというのも、正直わからないのだ。

嘘をついてるならどっちにしろ悪い事なんだけどね。

本当に世の中から差別を消したいなら日本でいえば「陰キャ」とか「オタク」とか「陽キャ」という言葉も消したほうがいいのではないか。
自分は差別がない世界というのが恐ろしくて仕方ないが、そんな世界は来ないと思っている。一体どういう世界が差別のない世界なのだろうか?お互いがお互いの価値観を認める世界なのだろうか?だったら、「差別がないなんて認めない」と言う誰かの価値観も認められないといけないことになるし、だとすると差別は消えないことになる。

「めぐまれない子供たちに愛の手を」みたいなキャッチコピーの募金箱がいろんなところに昔あったのだがあれも嫌な言葉だと今考えると思う。そのコピーはともかく、誰かを恵まれていないと思うのは、自分達が恵まれているという自覚があるからだ。実際、募金を求めているその国の人たちが恵まれていないかどうかなんてわかったことじゃない。そこで、何を指標に恵まれているかを判断しているかどうかっていうところに、自分達の何かが眠っているような気がする。

小田急で起こった事件

このnoteを書いてる最中に、小田急線で10人が襲われる事件が起こった。特に女子大生が一番狙われたらしいが、犯人の動機は「勝ち組そうだったから」というものだそうだ。

「自分がくそみたいな人生を送っているのに幸せそうな人は許せない」

私はよく言っているが、日本は「第二の地下鉄サリン事件」が簡単に起こせるけど、誰も起こらないことを願っている不思議な国だと思っている。願っているだけで対策とかは全然なく、だ。これはもう神頼みに近いとさえ思っている。ちょっと前に大阪に行った際、何の検閲もなく地下鉄に乗れたから、もし私が犯罪者だったらどうするんだ?と思ったことがある。サリン(に限らなくてもいいが)が作れさえすれば第二第三の事件を起こすことなんて簡単だろう。

以前noteで私は「やり残したことがない」と漏らした。現状幸福感を感じているからいいものの、私が絶望の淵に立ったら正気を保っていられるという保証はない。それは誰にでも言えることだと思うが。ざっくりいえば「守るべきものがあるから」というのがブレーキになっているわけだが、そういうのがない人は何をするかわかったもんじゃない。

上半分の記事で「現代の人は数字を大切にする」と書いた。数字というのは情報とも言い換えられると思う。こういう事件があった時に目を引く意見がある。

「記録として残して次の犯罪を防ぐ」

みたいなものだ。この意見、以前は自分もめちゃくちゃ思っていたが最近一転して「ゴミみたいな考え方だ」と思うようになった。
全否定しているわけじゃない。今は技術が発展しているから、精神鑑定ということもできる。事件を起こすトリガーとなったものを探し、次に起こるかもしれない事件を防ぐための努力をするという取り組みは間違ったものではないと思う。

ただそれをやっていいのは専門的な知識、技術、理解のある人だけだと思う。人間の心理や精神への理解が大してないような素人が扱うには難解なテーマだ。
こうやって文章によって自分を表現している身からすると矛盾も起こるが、どんな主張も暴力の前では無力だ。ペンは剣よりも強し、という。確かに影響力という点ではペンは剣に勝てるかもしれない。だが剣で殴りこまれたらいくらペンを使える人間でも普通に斬られる。

とにかく人をデータとか数字とかで見るのはやめよう。
自分はそう思うようになった。この点は、昔の「無駄切り捨て主義」の自分からはかなり違った方向への転換だ。自分が寂しい時、「寂しさを感じている人が1万人日本にはいるから」みたいなので、ひとくくりにされたりしたら孤独感は余計に増幅する気がする。別に、孤独だろうがそうでなかろうが気遣えばいいし、友達になればいい。

犯人の動機に戻るが「勝ち組に見えたから」人を刺したという。

勝ち組というのも「数字で測れないもの」だ。勝ち組の格好をしてるだけで中身はめちゃくちゃ孤独かもしれない。なんなら、孤独というのも数字では測れないが・・・。「目の前の人を大切に」とよく書くのだが、数字や情報を大事にする人が増えたからこそ、芸術とか自然とか、「感覚的なもの」に触れる機会を一人でも多くの人が持ってほしいなと思う今日この頃である。

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