もーちのVR日記その6 ジョーカー型犯罪は受容されるか
ジョーカーたち
安倍首相銃撃事件の山上容疑者など、映画「ジョーカー」になぞえられる人物がいる。彼らは社会から疎外された経済的にも精神的にも恵まれない独身男性で、社会への憤懣から無差別殺人やテロに走るとされる。
『クレヨンしんちゃん』の映画に出てくる「非理谷充(ひりやみつる)」もそのようなキャラクターとして話題になった。
社会においてジョーカー型犯罪が頻発すれば、これまで無視されてきた「弱者男性」にスポットが当たるのではないかという論調がある。いっぽうジョーカーによる犯罪が同情を集めるたびテロ(暴力)による社会の変革は許されるものではない論もセットで登場する(https://diamond.jp/articles/-/309742)。
ここで典型的な誤解が「弱者男性たちはジョーカーを応援している」というものだ。しかし現在、真の意味でジョーカー型犯罪を受容する弱者コミュニティは存在しない。
弱者コミュニティは暴力を受容しているか
ここでは弱者たちの集うコミュニティとして嫌儲を取り上げる
傍証
ここでは弱者たちの集うコミュニティとして嫌儲を取り上げる
The judgment of your peers
たしかに嫌儲では安倍首相銃撃事件などのテロリズムの際に犯人に対して称賛する声があった。少なくない数の者たちが大いに喜び、犯人を社会改革者のように祀り上げた。しかし彼らのそのような雰囲気は、ひとたび事件が変われば異なってしまう。
たとえば小田急線ジョーカーでは「サラダ油を床にまき、ライターで火をつけたが、燃え広がることはなかった」との事実に対して「サラダ油が引火するわけないだろw」とひたすら馬鹿にしていた。京王線ジョーカーでは「大量殺人で死刑になろうとした」などの犯人の供述に比してひとりも死者が出なかったことをあげつらって「ひとりも殺せない雑魚www」とバカにするばかりであった。
ジョーカー的な事件の発生を喜ぶ意見こそ散見されるが、彼らの犯人に対する評価は結果を出した者にしか向けられることがない。つまり、死者だ。
安倍首相暗殺事件と岸田首相暗殺未遂事件では犯人への態度が全く異なるどころか正反対なのがじつに象徴的である。
嫌儲は典型的な「口だけ無能上司」
ジョーカーを社会からはじき出された底辺、嫌儲などの5ch掲示板を弱者コミュニティと捉えると、コミュニティの評価は「結果を出したものだけ持ち上げるが、同じような志を抱けど失敗したものに対しては徹底的に冷遇して扱う」というスタンスである。
もし暴力によって社会を変える雰囲気を醸成するなら、ジョーカーとして結果的に大成功した者でなく、同じような動機で立ち上がったが惜しくも結果を残せなかった者に対してこそ優しく肯定的な言葉をかけ(「よくがんばったね」「惜しかったね」と)、好意的に扱わなければ後の者は続かないのではないか?
筆者の知りうる限り、これができているネットコミュニティは存在しない。口だけの減点法で偉そうに評価し、少しでもミスをして結果が出なければその志すら汲み取らず馬鹿者のように扱き下ろす。これでは部下を上手く動かすことはできない、典型的な無能上司の類だろう。
確かに「サラダ油は燃えない」のような事実を周知徹底するためにコミュニティはいくらか役立ったかもしれないが、モチベーションまで考慮するとマイナスである。「真の意味でジョーカー型犯罪を受容する弱者コミュニティは現代日本には存在しない」と主張したい。
欧米のコミュニティがどうなっているのかは知らないが、イスラム系テロリストは「一国の指導者の命を奪えば天国に行けるが、失敗すればお前は神から見捨てられ惨めな一生を送るし天国にも行けない」などとは教えないだろう。殉教すればたとえ結果が伴わなくとも皆天国へ導かれるはずだ。
弱者コミュニティはテロによる暴力を受容できていない
筆者は言いたい。社会を変革するジョーカーを待ち望んでいるなら、結果を出した者だけを称賛するのをやめろ。『死馬すら且つ之を買ふ。況(いは)んや生くる者をや。 馬今に至らん』と。
受容すべきは人生を捨てた「覚悟」に対して
たしかに山上容疑者を称賛する弱者男性は存在する。しかし大成功を納めた犯罪者なら女性からの支持すら集める。
そうではなくて必要なのは失敗したジョーカーへの顧慮だ。
筆者は、ジョーカーの声が社会に聞き入れられる理由があるとすればそれは何人もを殺傷した結果からではなく、みずからの人生を捨てた「覚悟」に対してであると思う。
通常、ちっぽけな個人の魂の叫びは社会に聞き入れられることがない。しかるにそれが個人の人生を捨ててまで届けられた「叫び」なら、やっぱり少しは耳を傾けるべきではないか。
ニュースのコメンテーターは無責任な意見を繰り返すのみだが、みずからの人生を投げ捨てて叫べるのは一回きりである。それができる者は多くはない。そうして届けられた意見はきっとコメンテーターのものより「重い」だろう。
一生を棒に振って届けた意見でも一笑に付される者たちがいる。聞き入れられるのは有能な大量殺人者の声のみだ。「テロリズムに屈して声を聞き入れてはならない」と人は言う。当たり前だ。何人もの命を捧げた人間しか声を聞き入れられないのなら、社会に声を届けるためにまた何人も殺されなければならない。そんな社会とのやりとりは間違っている。
みずからの人生を捨てても社会に声を届けることができない現状こそ間違っているのだ
みずからの人生を捨てるだけで声が届く社会(=犯罪に限らず、自殺含む)なら、メッセージのための大量殺人を犯す必要は無いので、市民にとってより安全な社会となるはずだ。
山上容疑者も、何も為せなかったジョーカーも、自らの覚悟をもって人生を棒に振った点では同列である。なぜ同列に扱えないのか。