もーちのVR日記その15 CROSS†CHANNELというゲーム
Youtubeで某狂人がエヴァンゲリオンについて無限に語れるみたいな勢いだったので羨ましいなとなりつつ「もーちにも1個くらい熱く語れる作品があるのではないか?」と考え抜いた結果、名作エロゲ「CROSS†CHANNEL」なら人よりも熱意をもって語れると思った
名作としてのCROSS†CHANNEL
2003年9月26日に発売されたエロゲであるものの、エロはあまり重要ではないため全年齢版でもエロシーンだけカットした実況動画(かつてニコニコ動画にあった)でもふつうに楽しめたりする。
この物語のテーマは
チャットGPTにかかせてみた。
チャットGPTに書かせてみたがまあ大体合ってる。個人のアイデンティティと人間関係の複雑さについて作中では太一の「自立しているものに惹かれた」という支倉曜子に抱いた印象からはじまるモノローグがある。
この辺りはエヴァンゲリオンにも通じ合うところがある(ヤマアラシのジレンマ)。じつはCROSS†CHANNELのテーマはエヴァンゲリオンと同じかもしれない(エヴァンゲリオンはあんまり理解してないのだが)。
『CROSS†CHANNEL』のストーリーは
チャットGPTにかかせてみた。
…40%くらいあってる! この物語の主人公名は黒須太一(くろす たいち)であり、主人公の苗字であるクロス(交差する)という単語は作中で繰り返し現れ重要な意味を持つ。テーマソング「CROSSING」などにも使用される。
また本作で重要アイテムとして登場する武器がクロスボウなのも偶然ではないだろう。
この物語のすごいところ
まず何より驚いたのが、このゲームがあらゆる物語の暗黙の了解やルールと呼べるものを破りまくっている点だ。
たとえばギャグの最中にシリアス、シリアスの最中にギャグが平然と挟まる。「妖刀ハラキリブレードは空間両断跳躍を果たすのである!」というナナカクラッシュで引用された有名な台詞がじつはあまり笑えなかったり、超シリアス展開の途中で「Sのエスっぷりはますますエスカレート」と突然ギャグみたいなモノローグを挟んでみたり、やりたい放題である。
また太一の部屋で「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というダイアログが表示され、クリックしてみると「これはキルケゴールの名言だ」と解説される(これの間違いは一切明かされない)など、テキストがまったく信用できない。これは本当に斬新だった。
主人公はセクハラばかりするし、何かと掴めないキャラだし、前情報無しだと何もわからない状態でしばらく物語を突き進むことになる(とくに体験版部分)。
これらの意味で初見プレイでもーちは衝撃をうけた。
しかしすごいのは、すべて鑑賞し終わったあとでだからこそ名作だったと納得できる作品全体の完成度の高さである。あらゆるものが伏線なのだ。
先見の明――群青学院について
※微ネタバレあり
主人公たちの過ごす群青学院は、作中世界で流行しはじめた心の病(現代病)に対処するため作り出された闇の深い施設である。
社会に適応できない精神的な問題がある子どもたち――現実世界に翻案すれば自閉症もそのひとつだろう(実際、学院では会話が成立しないものが半数以上いるような言及がされており、かなり近しい印象を受ける)――彼らを一手にあつめて引き受けるのが群青学院の本性である。
つまり群青学院では精神的にどっかしらヤバい生徒たちが溢れており(身障枠もあるが少数で珍しい扱い)、彼らは「適応係数」によってその程度を測られながら学園生活を送っている(適応係数が低くなると社会復帰ができる)。
適応障害などという言葉がまったくといってよいほど浸透していなかった2000年代前半、この精神状態の尺度をさして「適応係数」と名付けたセンスがすごい。
適応係数はあるべき社会のあり方から外れた病者を数値化によって排除する点で、これはもしかするとSYCHO-PASSの犯罪係数のアイデアと同一では?と思った方もいるかもしれない。実際同じものを感じる。
さて、こんな学院でそれでも青春しようともがく少数グループが主人公を始めとする「放送部」のメンバーである(余談だが彼らが地域に向けて放送しようという流れになったとき、山辺美希が放送名を「電波ゆんゆん放送」と提案して怒られるギャグシーンがあるのだが、この背景を知っていればガチで洒落にならないとわかる(当時のサブカルチャーでは電波やゆんゆんといったフレーズは「頭がおかしい人・言動」を意味した。ギャグとシリアスの混ぜ方が壮絶すぎる)
この群青学院だが、前述の「人は群れる」と「青春をする」を掛け合わせた「群青」なのだと解釈した。群れて青春をする舞台。「群青」というネーミングは美希ルートにてダブルミーニングで使われる(かなり好き)。
さらに『CROSS†CHANNEL』の最序盤、(群青学院について解説されないかわりに)なぜか街の原子力発電所の誘致過程について詳しく述べられるシーンがあり、これは物理的・科学的な施設としての原子力発電所と心理的・精神的な施設としての群青学院を対比し、原子力発電所なんてものを誘致するようなぶっ飛んだ街だからこそ群青学院という明らかに近所受け最悪そうな施設もあるんだよ、という説得力をもたせるための構造だと気づく。
これら何が言いたいのかというと、作品の舞台となっている群青学院の秀逸さは目を瞠るものがあるということである。
おわり
まだあまり語っていないが文字数的にちょうどよくなったので終わり。
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