アラフィフ女子アル中タラレバ日記 入院①

自己紹介は前回くらいにして…本題を。
お酒に溺れた25年を過ごしてた私ですが、
2回入院してます。
1回目は36くらいの時。
2回目は44の時。
それぞれ別の病院でしたが、まあこれが暇で暇で。1回目の入院の時は携帯も持ち込めなかったので、そこで知り合った人たちとひたすら喋るか、夜な夜なトランプやって過ごしてました。
さらに、外出厳禁なところだったので、廊下を歩いたりその場でできる運動したりと時間潰すのに必死でしたね。
タバコは吸えたのでひたすらタバコ場で誰かと話してましたね。

で、これがまた売店とかもない!
面接時に差し入れしてもらうしかないけど、これもまた厳しいチェックが。
しかもなま物もいけないし限られるわけですよ、
美味しいもの食べたくて仕方なかったなー。

で、鉄格子で外にも行けない。
精神病院です、さすが。
入院時には手荷物検査で刃物がないかどうかなど入念にチェックされるし、刑務所かっ!って
感じですよ。
入院1日目は、ペラッペラの布団一枚と和式便座しかない部屋に入れられ…地獄だと思いましたね。
先生には、これがどん底だから這い上がるしかないと言われました。
その部屋には半日もいず出してもらえたので良かったのですが、でても狭ーい病院の中。

簡素な食事スペースにはうなだれた男性が1人。どうやら眠れないらしく、いつも起きてて辛そうです。この男性は、その後退院してお酒のせいなのか、肝臓が悪かったのか、
残念ながらなくなってしまいました。
この場でご冥福をお祈りいたします。

そんなこんなで3ヶ月と言う長い入院生活がはじまったわけですが、とにかく飲みたいわけですよ。
散々親に説得され、36にして泣く泣く両親に連れられて初の入院生活が始まったわけです。
本当にそれまで健康体で生きてこられて、親と遺伝子に感謝してもしたりないですよね。

1日目から、公衆電話で親に電話しました。
こんなところ1日も早く出してくれ!って。
叫びましたよ、病院中に響きそうな声で。
携帯もないから今時公衆電話。
切なかったなぁ。
30代の働きどき、子育て真っ最中のみんながいるなかアル中で精神病院行きですよ、
切ないどころか死にたくなりますよ。
なんでこんな人生になってしまったんだろうと。
親も恨みましたよ、こんな病院に入れやがって!!!って。
うちは兄も勉強してて親にアドバイスしてたんで、私の懇願もむなしく。
退院なんてできるわけなく、強制入院に近いわけです。
アル中用のプログラムが2ヶ月半に渡ってあって、それが終わらないと外に出れないわけですね。
そのプログラムはまぁとにかくお酒は死ぬよ、とかこんなに身体を蝕む、とかそんなことを延々と話してくれるわけですが、こっちとしてはそんなの関係ねぇ!!!!!って声を大にして言いたいわけですよ。
朝から晩まで食事もせずお酒飲んでたわけですから、どうやって脱出しようかとただただそんなことばかり考えてました。
あとは、ご飯のことですね。
実家暮らしだったんで上げ膳据え膳できた私。
一人暮らしをするかと思えば、お金なくなって帰って来る。住民票ももちろんうつさない。
年金も親が払ってくれる。なんて
とんでもない娘だった私は食事なんて気にしないわけで。一人暮らし時も冷蔵庫があったかどうか危うい。洗濯機もなかったかも。
どこにいても根無草でした。
飲んでる時は大抵おじさんか年上の人でごちしてくれたし、とりあえず食べる物には困らない。
アパレルの広報・PRなんてやって銀座と表参道勤務だったもんで舌だけは肥えてまして。
ランチにはあそこのパスタだの蕎麦だの鉄板焼きだの焼き肉だのと食べ歩くわけですよ。

それが、冷えて美味しくなさそうな安そうな皿にもられてトレー乗ったご飯をアル中仲間と一緒に黙々と食べるわけですよ。
切ないことこの上ないですよね。
奇声を上げながらテーブル間を徘徊する女性とかもいた訳で。
で、毎日の楽しみと言えば朝昼晩の献立見ることと、夜にやる大富豪とかだけなんです。
派手な洋服きて華やかにメディア関係者とミラコレの話してた私が!!!ですよ。
すっぴんでスリッパ履いて、毎日湿っぽいシーツでうずくまってるだけなんですよ。
信じられなかったですね、ここにくるまでその記憶は消去してました。

はぁ…今考えてもただただ切ないですね。
復活できたから言えることですが。
今は幸せですよ、子供いて家族がいて、美味しいご飯が食べられて。
噛み締めてます。
まだまだ沢山書きたいことはありますが、続きます。

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