拝領唱 "Pater, si non potest" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ127)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 149 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じなので,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため原則として後者のみ記す).
Graduale Novum I, p. 110.
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2025年2月26日
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【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplexはだいたいこれに従っている) では,次の機会に今回の拝領唱が用いられることになっている。
棕櫚の主日 (枝の主日,受難の主日※)。
※「受難の主日」という呼び方は,伝統的にはこの日よりむしろ1週間前の四旬節第5主日に用いられるものである点,特に古写本を研究したりするときには注意を要する。
棕櫚の主日は四旬節最後の主日であるとともに,聖週間 (復活祭直前の1週間) の初日である。イエスがエルサレムに入城したことを記念する日なのだが,同時に受難の記念まで行なってしまうことになっている。今回扱う拝領唱は,明瞭に後者の内容をもつものである。
2002年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) においても,今回の拝領唱は棕櫚の主日にのみ置かれている (PDFをGoogle Chromeで開き "si non potest" をキーワードとするページ内検索をかけて見つけることができた限りでは)。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) では,PDF内で上記同様に検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の拝領唱はやはり棕櫚の主日のみに置かれている。こちらでは,棕櫚の主日は「受難の第2の主日 (Dominica II Passionis)」とも呼ばれている。1962年版ローマ・ミサ典礼書では,四旬節第5主日にあたる日 (「受難の第1の主日 Dominica I Passionis」と呼ばれている) からを受難節 (Tempus Passionis) と呼んでいるのである。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも同様だが (AMS第73b欄),こちらには「受難の第2の主日」という呼び方は見られず, 「棕櫚の主日」とだけ記されている。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Pater, si non potest hic calix transire, nisi bibam illum: fiat voluntas tua.
父よ,私が飲まない限りこの杯は通り過ぎてゆくわけにゆかないのでしたら,あなたの御心が実行されますように。
マタイによる福音書第26章第42節が用いられている。ゲツセマネの園でのイエスの3回の祈りのうち,2回めのときの言葉である (なお3回めも「同じ言葉で祈られた」とある)。
イエスは受難を前に,汗が血のように流れる (ルカ22:44) ほどに激しい内心の試みを受けているさなかであり,受難を避けられるものなら避けたいという気持になる中,父なる神の意志に従おうと必死に祈っている。祈るとき,うつ伏せの姿勢をとっていたと記されている (マタイ26:39) が,これは苦悩あるいは切実な願いの表れとみることができると同時に,絶対服従を表すものともとれるかもしれない。
カトリックの典礼の中でこの姿勢がとられる機会が少なくとも一つあり,それは司祭叙階式である。参考動画
テキストをVulgata (ドイツ聖書協会2007年第5版本文) と比較すると,Vulgataでは最初の呼びかけが “Pater mi (わが父よ)” となっている,ということ以外は一致している。
【対訳・逐語訳】
Pater, si non potest hic calix transire,
父よ,もしこの杯が通り過ぎてゆくわけにはゆかないのでしたら,
Pater 父よ
si もし〜ならば (英:if)
non potest 〜できない (non:[否定詞],potest:〜できる [動詞possum, posseの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形])
hic この
calix 杯が
transire 通り過ぎてゆく,過ぎ去る (動詞transeo, transireの不定法・能動態・現在時制の形)
個人的には, 「父よ」という特殊な呼び方ではなく,普通に「お父様」か何かにしたいところなのだが,日本語聖書で一般に採られている訳語を踏襲することにした。
nisi bibam illum:
私がそれを飲まない限り (この杯が通り過ぎてゆくわけにはゆかないのでしたら),
nisi 〜でなければ,〜以外の場合には (英:unless)
bibam 私が飲む (動詞bibo, bibereの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形,または接続法・能動態・現在時制・1人称・単数の形) ……ギリシャ語原典では接続法なので,おそらくラテン語テキストでもそのつもりなのだろう。いずれにせよ,今回の場合はどちらの解釈をとっても実質的な違いはあまりないといってよい。
illum それを ……本来「あれを」という意味の語だが,このように単に前出の要素を指すのにも用いられる。
前の “si non potest …” (これ自体もまた条件節) にかかる条件節である。
fiat voluntas tua.
訳1:あなたの意志が実行されますように。
訳2:あなたの意志 (の内容) が成りますように。
fiat 実行されますように (動詞facio, facereの接続法・受動態・現在時制・3人称・単数の形);成りますように,起こりますように (動詞fio, fieriの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形) ……いずれにせよ不規則動詞。
voluntas tua あなたの意志が (voluntas:意志が,tua:あなたの)
主の祈り (Pater noster) の第3祈願と同じ言葉である (ギリシャ語原典でもそうなっている)。ただし主の祈りのほうでは「天においてのように,地においても (sicut in caelo, et in terra)」と続くが。
J. S. バッハのヨハネ受難曲 (BWV 245) でも,ゲツセマネの場面で主の祈りのコラール “Vater unser im Himmelreich” の第4節 (第3祈願を扱っている) が歌われる。この第4節は,苦境にあっても神の意志に従うことができるように,また神の意志に対立するような自分の望みを神が制御してくださるようにという願いを歌うものであり,ゲツセマネの場面にまことによく合う内容となっている。