拝領唱 "Exsulta filia Sion" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ117)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 47 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, p. 27.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplex/Novumはだいたいこれに従っている) では,今回の拝領唱は次の機会に割り当てられている。
主の降誕の祭日・早朝のミサ (12月25日早朝)
神の母聖マリアの祭日 (1月1日)
2002年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,PDF内で "filia Sion" や "ecce Rex" をキーワードとする検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の入祭唱は主の降誕の祭日・早朝のミサのみに割り当てられている。
神の母聖マリアの祭日の拝領唱としては,別のテキストが記されている。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,PDF内で "filia Sion" や "ecce Rex" をキーワードとする検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の拝領唱は主の降誕の祝日 (12月25日) の第2ミサ (早朝) のみに置かれている。
AMSにまとめられている8~9世紀の6つの聖歌書写本のうち,拝領唱に関係あるのは5つ (M=Monzaモンツァ以外) だが,そこでも同様である (AMS第10欄)。
ただしこちらでは「第2ミサ」とは書かれておらず,"mane prima" とある。これについて (の,少なくとも私にとっては面白い話) はこちらの記事を参照。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Exsulta filia Sion, lauda filia Ierusalem: ecce Rex tuus venit sanctus, et Salvator mundi.
喜び躍れ,娘シオンよ,ほめたたえよ,娘エルサレムよ。見よ,あなたの王が来る,聖なる方にして世界の救い主である方が。
ゼカリヤ書第9章第9節のはじめ3分の2が用いられている。
テキストはVulgata (ドイツ聖書協会2007年第5版) とは異なっており,BREPOLiSのVetus Latina DatabaseにあるさまざまなVetus Latina (古ラテン語訳聖書テキスト) を見ても,もとになったらしいものを見つけることはできなかった。
ただ,Vulgataでは "venit (来る)" (現在時制) が "veniet (来るであろう)" と未来時制になっているのだが,Vetus Latinaの中にはこれをこの拝領唱と同じく "venit" としているものもある。つまり,これは必ずしも意図的な時制の変更と考えなくてよさそうである。
なお,同じ聖書箇所をもとにした奉納唱 (奉献唱) があり ("Exsulta satis filia Sion"),そちらはアドヴェント (待降節) の終わりごろに用いられてきたものである。
【対訳・逐語訳】
Exsulta filia Sion,
喜び躍れ,娘シオンよ,
"filia Sion" の"Sion" は格変化しないため,形の上からはどの格か分からない。"filia" と同格 (呼格) ととれば「娘 (である) シオンよ」,属格ととれば「シオンの娘よ」となる。さまざまな翻訳聖書を見てみると,どちらの訳も見られる。
私としては,"filia (娘よ)" が単数形であることから,前者の解釈を採りたい。つまり, 「シオン」自体が「娘よ」と呼びかけられていると考える。
それに「シオン」は (次の文で現れる)「エルサレム」の別名であり, 「エルサレム」はキリスト教の文脈では,教会すなわちキリスト教的な意味での救われた民全体を表すのにも用いられる語である。となると,原義はともかく少なくとも降誕祭のミサでこれが歌われるときには,"filia Sion" という呼びかけの対象は教会 (救われた人々の群れ) であると考えてよいだろう。そうすると, 「シオン」全体ではなくその中の一部だけを指すかのような「シオンの娘よ」という解釈は不適切だと思うので,やはりこれは採らないことにしたい。
lauda filia Ierusalem:
ほめたたえよ,娘エルサレムよ。
ecce Rex tuus venit sanctus, et Salvator mundi.
訳1:見よ,あなたの王が来る,聖なる方にして世界の救い主である方が。
訳2:見よ,あなたの王が来る,聖なる方として,また世界の救い主として。
訳3:見よ,あなたの聖なる王にして世界の救い主である方が来る。
Graduale Triplexにあるテキストをそのまま写したが,このコンマの打ち方だと,"sanctus" までは一続きであるように感じられる。しかし本当にそう考えてよいか,検討の余地が大いにある。ラテン語聖書テキストやグレゴリオ聖歌を記した写本にはコンマはなく,つまりこれは後で付け加えられたものであり時に無視することも視野に入れるとよいので,なおさらである。
なお,2002年版Μissale Romanumにはこのコンマはない。1962年版にはある。つまり "venit" と "sanctus" との間に区切りを入れるか否か考えるのだが,これは別の言い方をすると,"sanctus" が前の "Rex" にかかっていると見る (訳3) か,それとも "venit" までで一応文は完結していて,"sanctus et Salvator mundi" は付け足しのように主語を言いかえているものだと見る (訳1・訳2) かということである。
Vulgata (ドイツ聖書協会2007年第5版) では "ecce rex tuus veniet tibi / iustus et salvator ipse" となっており (/は改行),いろいろと言葉が異なっているものの,とにかくこの拝領唱のテキストでいうと "venit" と "sanctus" との間に区切りがあることが読み取れる。
七十人訳ギリシャ語聖書 (ドイツ聖書協会2006年第2版) ではこのような細かい改行はないが,同じところにコンマが打たれており,逆にこの拝領唱のテキストでいう "sanctus" と "et" との間にはコンマがなく,やはりVulgataと同じ区切り方になっていることが読み取れる。
ヘブライ語原典 (マソラ本文,ドイツ聖書協会1997年第5版) でも区切りは同様である。
Vulgataでも七十人訳でも,後半はこの拝領唱とは異なり「正しい方であり救う方である,彼は」という独立した文と解釈できる内容になっているため,上記のような区切り方をするのは当然ともいえる。
旋律を見ると,"venit" のところに (ソを終止音とする) 終止形があるようにも思え,そうするとやはり "venit" と "sanctus" の間で区切ればよさそうである (実際,Graduale Triplex/Novumはここに小区分線を入れている)。
しかし終止形のようでもあるこの動きは,入祭唱 "Hodie scietis" の "videbitis" (Graduale Triplex, p. 38,2; Graduale Novum II, p. 20,2) に見られるような,次へと向かう推進力のある形とも見ることができる (同入祭唱では,特に重要な語句 "gloriam eius" を指し示すような働きをしている)。そう考えると "sanctus" まで一気に進むほうがよいとも考えられる。というわけでどちらが絶対ということはなさそうだが,まあここは素直にVulgataや七十人訳に従って (その結果,Graduale Triplex/Novumの小区分線にも従って) "venit" と "sanctus" との間に区切りを置いて考えるとよいのではないだろうか。
というわけで訳1と訳2が候補として残る。
文法的にはどちらでもよいのだが, 「聖なる方として」というとどうも,聖であることがこの「王」の本質には属さないように受け取れなくもなく (つまり,今回は「聖なる方」として来るがいつもそうというわけではない,と聞こえかねず),それだとこの拝領唱がイエス・キリストについて歌っている以上おかしいので,訳1を採りたいと思う。