半年間で両親を見送ったひとりっ子の娘として
2021.08.01に父親が脳出血により死亡
2022.01.12に母親が乳がんにより死亡
半年間でふたり、両親を亡くした24歳の娘として
これまでの人生を書いてみます。
今正直、悲しみよりもほっとした
やりきったという気持ちでいます。
この先人生半分以上 何かに悩んだ時直接相談は出来なくても 両親からの言葉は降ってくる。
孫の顔もっと見せたかったとは思うけどね、
この先人生半分以上、もう親の心配をしなくていい
うちの父親は昔から酒癖が悪く、飲み歩くと連絡なしで朝方帰ってきては、出ていけ、お前なんかいらないと私に怒り、
お前の育て方が悪いと母親を叩き起し、離婚だ、出ていけと騒ぎ立てました。
それなのに、出ていこうとすると、離婚をしようとすると自分が必要とされていないと感じまた感情的に、攻撃的になる。
どう考えても境界性人格障害。私と同じです。
私も同じだから、というのも父親には小さい子から同情していました。
小さい頃から父親が寂しがり屋、育ってきた環境が複雑で愛情不足、愛情表現が苦手なことを母親から知らされていたので、4歳くらいの頃から
パパは大切にしてあげないと、家族は私たちしかいない。愛してあげないとという責任感を持っていました。
そんな父親は、自分の父親が亡くなった時の遺産で自分で仕事をしたいといい、今やったら上手くいっていたであろう地域ポータルサイト(広告のようなもの?)の運営を始めました。だが時代に乗れず、うまくいかず母親に隠して借金をした。
返済ができず、父親がいない時間に家に電話がかかってきて、母親と私は多額の借金をしていることを知った。
そこからは私の家族は本当に地獄でした。
母親は仕事をして欲しいが、父親は投げやりで仕事ができる状態でない。
これは今では持ちネタだが、私のどうぶつの森を取り上げ彼はどうぶつの森の中で大富豪になっていた。w
どうぶつの写真を全てコンプリートして写真部屋を作り、「しゃしんほしいよ」とどうぶつに手紙を送っていたニートで借金まみれの父親を一生忘れない。
仕事をしない、収入を得ない父親にキレた母親は父親には小遣いを渡すのを辞めた。そうしたら私が風呂に入ってる間に私の勉強机の下にある貯金箱からお金を盗んでいた。あの時のみすぼらしい姿も忘れられない。180センチ以上ある父親が、子供の勉強机の中にある金を盗むために小さくなっていたこと。私に見つかった時の顔。
タバコが吸えなくて本当にイライラしてた。
父親を見て、絶対に酒は飲まないしタバコは吸わないと思ったのに、母親が妊娠中に「パパにそっくりな子が産まれますように」とお腹に話しかけていたせいで全てが遺伝した。見事にアル中ヤニカスでした。
母親は仕事をする。
だが父親は働かないのでもちろん生活はきつい。生計を立てないなら離婚だと話をしたら
父親は境界性人格障害あるあるの見捨てられ不安で脅しをする
離婚して娘(私)を連れていくなら、2人とも探し出して殺すかもしれないと脅す
母親にはここから飛び降りて楽になろうと無理心中を誘われたこともありました
小学四年生だった私は、行き場のない怒りや不安で、落し物箱にある物を全部壊し、学校のドアを殴り続け自分の拳が赤くなるのを見て何故か安心していた。
ママとパパが親権争いをするなら、私は児童相談所で暮らすとも言った。
先生に提出する日記に「お金がこの世にある必要はなんでですか」「お金でみなが苦しむなら、お金じゃなくて物々交換で世の中が回ればいいと思う」
小学四年生らしくないことを書いたので担任が母親を呼び出し心配だと相談をしていました。
そんなこんなで、私のために離婚しないとお互いが話あったようで、私が帰ってきた時には、何年ぶりかに母親と父親が同じベッドで、やらしくない、子供が見てもほっこりする雰囲気でいた。
その時、安心した。
パパは1人にならない と
母親が我慢していることよりも、孤独で寂しがり屋の父親が1人にならないことに安心をした、まるで子供をみているように。
そこから色々あり、
私が18歳摂食障害、精神疾患でどん底に落ちるのです。
そんな時父親に打ち解けるかすごく迷ったが、家族3人で過ごす時間に初めて打ち明けた
父親はすごい顔つきで精神疾患になるお前が弱いからダメ。俺は助けない。お前が悪い。
母親にはお前の育てかたも悪い。勝手にしろ、俺は絶対助けない
と言い放った
私は気分がおかしくなり出ていった
いい感じだった男の車に乗って リスカもしてたかな。大声で笑いながら泣いた。もうボロボロだったんだよ。
毎日過食嘔吐もして、指に吐きダコもできて、風呂場もつまらせて。腕も足も切りまくり、酔っ払って階段から落ちて意識不明なったと思えば救急車で起きて未成年だから親病院に迎えに来るのやばい!キャバクラで働いてるのばれる!とか言って救急車から降りてフラフラになって帰って。翌朝鏡見たら耳がちぎれてたり(笑)酔っ払って舌ピアスをあけたり、精神薬のODはもちろんだがブロンをODしたり、本当に10代後半は自傷行為が酷かったな。
でも数日?数週間?した後にブロンODしてたのか、アル中で死にかけグダってる私の部屋に父親が入ってきて
「俺も実はパニック障害みたいなのがあって、電車に乗ると苦しくて死ぬと思う。お前とママを養っていかないといけないというプレッシャーで、息が出来なくなる時があった。でも今は大丈夫。」と言った。知らなかったことをうちとけた父親に安心したのと、口下手な彼からの「ごめん」だったんだと思う。
グダってる私のベッドに入りながら2人で手を繋いで天井見ながら話したんだ
いい時間だった。
父親が憎いと思ったことは無い。可哀想だとしか思わなかった。
この父親のカミングアウトと手を繋いで話したことは、母親が亡くなる数ヶ月前に初めて話した。
母親は「あの時の一言で離婚すると決意したくらい嫌だった。でも2人の中でそんな事があったのを知れてよかった。安心したよ。ありがとう」といってくれた。もっと早く言っておけばもっと早く安心させ、解放させられただろう。
私は父親との関係がその後もうまくいかずアル中になりキャバクラで働くのも稼ぎたいなんかじゃなくてただ無料で酒を飲みたいから
毎日二日酔いでほとんど記憶ない
いつの間にか気に入った客の家に入り浸り1ヶ月、付き合ってくれなきゃ死ぬ!と飛び降りるフリして
彼がずっと楽しみにしていた鈴鹿サーキットを行かせないで、私は大暴れ
ナイフも握ってたかな、とにかくボーダーの悪い所が全て出た後に、じゃあ付き合おうって言って付き合ってくれました。それが今の夫。
16歳年上の、世間では冷ややかな目で見られるような仕事をしている彼の家に夜逃げするように出てきた、3ヶ月で結婚する。
両親は何も反対することなく応援してくれました。
そんなこんなで数ヶ月後に長男を授かる。
妊娠中、親が離婚することを知った
父親からは「やられたらやりかえす」と私にLINEをしてきた。「ママのこと殺すの?」「それはしない。お前の幸せは奪わない。お前の笑顔は俺の宝だから」と言われた。
でも本当に、ストーカーされて殺されるんじゃないかと毎日不安で眠れなかった。
当日夜勤をしていた父親のいない時間に私が実家に戻り、母親の荷造りを手伝い、母親も私と同様夜逃げのようにでていった。
父親は1年間で2人、家族が夜逃げで出ていって1人になった。可哀想すぎる。
彼が問題なのに、同情してしまう。
私は幸せになるために、結婚するために出ていったけど、父親は1人だ。可哀想でならなくてダメになっていく父親が目に見えた。
彼はごみ捨ての日すら知らなかったので、冷蔵庫に張り紙をしたけど、ゴミを捨てることすら出来なかった。
なので私が、電車とバスを使い1時間かけて、妊婦なのに父親のゴミを捨てに行ったりもした。
自殺してしまうんじゃないかと思って、包丁を全部隠したりもした。
とにかく孤独にさせたくなかった。
父親のバックグラウンドを知ってるから。
読んでわかる通り、父親に苦しめられた母親の心配をせずに父親の心配ばかり、同情心からしているのだ。
だが2018年、次男妊娠中に母親の乳がんがはっかくするのだ。
ステージ3c 首のリンパまで飛んでいた。
しかも驚くことに1ヶ月で腫瘍が5センチまで成長。トリプルネガティブ乳がんというタチの悪いタイプのがんだった。
妊娠中不安で不安で仕方なかった。
長男の妊娠中、父親が家の鍵を忘れたから家に入れない。鍵を貸してくれと早朝に連絡してきたが、私は夫を起こしたくないので携帯をサイレントにしてバイブもオフにしていたので気が付かなかった。
そうしたら父親はものすごく怒り
「俺が死んだらどうするんだよ‼️」「俺はどうでも良いのか‼️」「電話出ろよ‼️」数え切れない着信と怒りのLINEがきて血の気が引いた。
私の家の前まで来たのに、部屋が分からないのでインターホンも押せなくて相当イライラしていたんだと思う。
「緊急連絡先からあなたを外しておきます。なにかあっても連絡できないなら意味無いので。鍵も返してください」と来ていた。
私は妊娠中夏の暑い中、実家に戻り鍵を置いていった。
次の日父親から生まれて初めて「ごめん、言いすぎました」と連絡が来た。
嬉しかった。憎しみもないので、ただ初めて父親が素直になって謝ってくれたことが嬉しくて、これまた子供の成長を見るように喜んだ。
だが私の不眠はそこから悪化しほとんど寝れず、長男を出産しまた不眠悪化、次男妊娠したと思えば母親はステージ3cのトリネガ。
切迫早産になり入院した。
まぁなんとか正産期に出産することが出来た。
産後3ヶ月頃に母親が手術をした。付き添いをした。次の日子供二人連れて、お見舞いにいった。
そこから放射線治療
トリプルネガティブ乳がんなので、ホルモン治療が出来ない。ただこの時は抗がん剤がすごく効果があり、5cmのがんが5mmになり小さな腫瘍でとる事が出来た。がんってさ、黒いかと思ってたけど、白かったの。触りましたよ。面白かった。
母親は放射線治療を終え無治療に戻る。
2年とだいぶすぎたころだろうか、
だが2021.2月に 職場で痙攣をおこし救急搬送され
結果は 乳がん原発の脳転移からくる痙攣。更には肺転移も発覚。
病院から「お母さん痙攣起こして病院に運ばれました。命に別状はないので安心して落ち着いてきてください。会話もできますので」と言われて
「客に嫌なこと言われて泣き崩れてパニックになって運ばれたかな」と思って「なんか辛いことあったの?嫌なこと言われた?」と聞くと
「転移してた」
「嘘でしょ」
「うそだとおもいたいよね」 母親は泣き崩れた
放射線治療、痙攣のお薬のコントロールをする入院生活をしばらくしました。
不安で悲しくなった私は、離婚した父親に連絡をした
「俺の周りみんな死んでいくなぁ」
父の父親は2018.06.18に肺がんで死んだ
父の母親は後を追うように翌年の2019.06.18にうっ血性心不全で死んだ
父の周りではコロナで死んだ人も多かったらしい
死んでいくって、まだ死んでないんだからそういうこと言うのやめてよ と言ったら
「でももう長くないんだろ?」という
まだ分からないのにひどいことを
そんなこと思ってた父親は相当不安だったから強くぶっきらぼうな言葉を私にぶつけてきたんだと思う。
自分が周りの人を殺してるような、疫病神のように感じていたのを、のちに父親が死んだ後に、残されていた。
父親に「ままに会いたい?」と聞くと
「俺は正直振られた身だから会いたくはない。でも生きて欲しい」と返ってきた。
父親は母親にLINEしていて「君は強いから病気に勝てる。」と送った
強くないよ純粋でもろくて、弱いのに、あなたのせいで強くいなきゃいけなくなっただけなんだよと思ったが
そんなこんなで月日がたち脳腫瘍と共に生活する母親は仕事に復帰していく
コロナのこともありなかなか会えないのでLINEでやり取りをする。なんだか6月末頃から次第に様子が変。
笑としか送ってこなかったり、文字が誤字脱字酷かったり。電話した時の息子二人の名前を間違える。えーっと、えーっと という
様子がおかしいと気がついて、脳転移、悪化してそうじゃない?というと
「うん、そんな気がしてた。次の9月の検診まで様子見る」という。
7/18日家に来てもらう約束をした。明らかに大丈夫じゃない様子でうちに来る。
仕事着で、仕事のネームプレート、社員証をつけたママ、化粧もせずに仕事行っていた母親が来た。
トイストーリーのキャラクターを見てカーズと言ったり、急に子供っぽくニコニコしながら喜んだり、明らかに脳転移でおかしくなってる。
お風呂入ってるのも心配で見に行ったらボディソープで頭洗ったり、とにかく様子が酷かった。
夜父親に連絡して、病院に連れていくべきか、職場の人に連絡して休職をさせるべきかも話したら連れていくべきだと言って貰えた。
ある友人は親のことだから職場のことまでこちらがやる必要ないと思うと言っていた。
でも私は朝起きてすぐに母親の職場の人に様子が変なこと、病院でこれから見てもらうことを話した。
病院に朝夫の車で連れていった時、私の誕生日も言えない。元夫の誕生日は絶対忘れることない!というのに全然違う日にち。待合室でもずっと数字を並べて話す。
診察される前から予測していた脳腫瘍の悪化
結果は脳腫瘍の浮腫から来る言語障害だった
幸い腫瘍は2.1センチで放射線治療で治療できるサイズだったので、(脳腫瘍の放射線治療は3cmを超えると極端に効かなくなる)放射線治療とステロイドで浮腫を抑える治療法に決まった。
それが7月の末。
病院の待合室で待っていた時に父親が母親に
「つらかったら
戻っておいで」と連絡してきた
言語障害ある母親から、ブロックして消してと言われた
私は娘としてそんなことは出来ないから、非表示にするねと言った。
そんな複雑なことがあった数日後母親は入院して治療
8/1には、私と一緒に暮らすことになった母親がいないし、日曜日で仕事がないのでうちでご飯を食べようと約束していた
父親の好きなハヤシライスを作ろうとおもい牛肉を解凍しておいた。でも父親から全く連絡がない。
半日連絡がないのでおかしいと思った
よく酔っ払ってどこかで寝ていたとか、酔っ払って寝ていたとかで半日連絡がないなんてざらにあったけど直感でこれはヤバい、と思い2歳と3歳の息子を連れて電車とバスに乗り実家に戻った。
子供にはもうジージ死んでるかもしれないから、と言っておいた。
部屋の電気はついていて、オリンピックもテレビから流れてる。だがうつ伏せでうずくまり死んでいる父親を見つけた。
結果、父親は脳出血で死にました
原因は高血圧。バランスの悪い最悪な食事、タバコ、酒。
高血圧だから、酒辞めたって言ってたじゃん。嘘だったの。寂しさ紛らわせるために飲んでたの。バカじゃん。もう。
部屋にハイボール1缶テーブルに置いてあったのを見て私もこうやって死ぬかもと思って酒を毎日飲むのを辞めた。
たまに飲むけどね、絶対二日酔いになるのに、なんかあった時は友達と楽しく飲む程度に落ち着いた。
母親は入院中に私の力になれないことで無力さを感じていたと思います。でもそのなんとかしてあげたいという母親の強さと放射線治療のおかげで
脳腫瘍はどんどん小さくなり無事退院できた。
8/8母親も退院し葬儀をした。コロナのことと母親の肺転移もあるので、小さな家族葬をした。
葬儀の前に、たくさんの人が父の顔を見に来てくれた。ぁあ、父親は孤独じゃなかったということに気がつけたのか?1人じゃなかったんだよ
キャバクラの女の子に「俺は孤独死だよ😢」とおじさんトークしてましたが
その女の子も葬儀の前に顔見に来てくださった、とても良い人だった
葬儀の時、母親が「愛してくれてたの、伝わってたから ありがとう」と震えながら泣いて手を握っていた
母親の脳転移の相談をした、父親が死ぬ数日前に父親には「ママに会いたい?」と聞くと「会えるなら会いたい」と言っていた。でも母親は会いたくないと言った
でも葬儀の時は、私が呼んだけど、呼んでよかったけど
愛してくれてたの伝わってたから と 震え泣き崩れ 手を握っていたのは複雑だった
あと1回、家族として3人で、いや孫を囲んで過ごしたかったから。
2人の会いたいというタイミングが合わなかった。
それだけなんだけど、死んじゃうとやっぱり悲しいね。
そんなこんなで葬儀が終わり、母親は服薬で抗がん剤治療を続け、脳転移もステロイドと放射線治療の効果ありでよくなっていったが、次は肺。咳をすることが増えた。
次第に悪くなり、歩く度に聞こえる咳が聞いていられなくて辛かった。家で片耳イヤホンして気を紛らわしたりもした。
もう咳しちゃうんだから家事しないで!と強く言ってしまったこともある。
私は動けるうちにあなたのために出来ることをしたいの という母親気持ち
辛い思いをして欲しくないという私の気持ち
お互いがお互いを思いあっての喧嘩をした。
肺転移のスピードは強烈。
11月の深夜に呼吸困難で緊急入院。
ひどいせきをしながら、病院に行く支度をしていた母親、私、眠剤飲んでいたけど起きてよかった。
119することでき、母親を送り出した。
次の日病院から電話がきた
「お母さんの体力では抗がん剤治療はできません。緩和ケアに移ります」
緩和ケア..昔のホスピスのようなものではないと分かっているが、自分の母親が治療ができなくなり緩和ケアに移るという現実は本当に辛かった
退院するにあたって介護ベッドをレンタルした。
要介護5とかかれた書類を見た時
51歳で要介護5 どんな気持ちだろうとまた複雑になった
11月から無治療になって 月末に母が残した日記
12/10に母の誕生日があった。
それまではちょくちょくご飯のおかずを作ってくれたり、私の二日酔いのために味噌汁を作ってくれたりしてた。
誕生日当日
夫と、祖母も誘いみんなで母親と次男の誕生日パーティをした。
12/11から激痛。起き上がることが出来なくなり薬飲む力も無くなった。歩くのも、明らかにまずい病人の歩き方。筋肉も落ち、内股でフラフラして壁に手をかけながら歩く。咳は止まらない。寝てる時間も増えた。
正直この状態の母親を見ているのが辛かった。
それと同時に私は摂食障害があるので、自分より食べているのに痩せている母親の姿を見ると拒食が悪化した。ママより食べてないのに私の方が太い。と
朝も夜も咳の音で起きる
咳の音で1日過ごす
痛みでわめく母親
本当に見てられなくて、薬を多めになにかに混ぜて死なせてあげようかなとか、もう見てるのつらすぎて家族全員殺して終わりにしようかなとかも考えてました。
限界だった
在宅看護師さんと話し合いをして12/17に入院しました。
その時、在宅看護師には「今は娘さんも辛くて限界きてるから、今は離れる時間として緩和ケアに入ろう。退院は状態が緩和されたらできるから。緩和ケアは帰れない場所じゃないから」と言われた言葉に安心して送り出した。
病院ついて、先生に「年末年始はお家から花火が見えるのでみせてあげたいんです一時帰宅できますか」と聞いたら
「正直年末年始まで持たないと思います」とはっきり言われた。
面会も、子供は禁止。知らなかったことがたくさん、動揺して珍しく人前で泣いた。悔しいw
お願いです、母は子供たちに最後ちゃんと顔みて送り出せなかったんです。寂しくなるからと顔を見ないで保育園送り出してここに来たんです。どうか面会できる時間を設けてください と泣きながらお願いした。
犬もお願いしますというと犬は大丈夫。ただ子供は上のものに相談してみると言われた。
無事会えた。
最期は家がいいと言っていた母親も、緩和ケア病棟のスタッフの皆様の優しさに囲まれ
「幸せすぎて」と泣いていたそう
家がいいとは、亡くなる数日前までも言ってました。私はどこに帰ればいいの、と せん妄なんだろうけど。病院に連れてきた私は、複雑だった。
でも痛みのコントロールを微調整してくれる、尿管してくれたのでトイレにおきあがらなくもいい、服薬しなくていいというメリットを感じてくれた。
次第にご飯も自分で食べれなくなり泣くことも増えた。意識が朦朧とする時間も増えた。
私が病室に入ってきた時、目を開けては
これが現実なのか、夢なのか、せん妄なのか、混乱しては苦しむ母親の姿を見るのはキツかった。
鎮静(意識レベルを低下させ痛みや苦しみを味合わせなくさせる)についての話を先生から事前にされていたので、その話をする。1回目はまだいい。起きていたい と言うが、次の日カスカスの声で目は死んだ様子で
「もう終わりだ 今だ」と言った。
これは先生も誰も聞き取れなかったけど私は聞き取れた。
鎮静の話、2回目する。もう眠りたい、起きてるの辛い、やりきった。幸せだった。苦しみのない世界に行きたい と言った。
鎮静を1/1に行った。
面会に行った時、私と母のパートナーはショックを受けた。目が上を向いて、でも閉じることもできない。口呼吸をしているので口は空いている。
もう、あの頃の綺麗で可愛くて自慢な母親の面影は無かった。それでも母親のパートナーは毎日遠くから車に乗りお花を買い母を喜ばせた。
ミダゾラム という鎮静剤を使ったのだが、量が2.5-3程だったのもあり、本当に呼び掛けに全く反応しないなんてことはなく。アイスを食べたりヨーグルトを食べたり、クラッシュアイスを噛んだりして少しの糖分と水分は取れた。
母親は胸水が溜まっていたので、無理に水分を入れると胸水が増えるので点滴で栄養を入れるのはしなかった。
鎮静から10日間 小さなアイスとヨーグルトを食べ、
パートナーが買ってくるお花を見てほほえみ
子供の歌声の動画を聞いて笑い、 亡くなる5日くらい前には愛してる ハグして とも言ってくれました。
1/11 父親と母親の結婚記念日、私と夫の結婚記念日
母親と父親は11/11にたまたま結婚式もあげている
そして母親のラッキーナンバーは11らしい。
この日かもな。と思い病院に向かう。
そこには酸素チューブからマスクに変えられた母親、息が荒い。
酸素は7ℓにしても10ℓにしてもspO2は70代
入院してから半月、酸素の量は2ℓで頑張っていた(右肺ほとんど機能しておらず左も数え切れない腫瘍状態で)のこの量でspO2が97らへんだったのは凄かったと思う。
ただ1/11から急激にサチュレーションの低下、肺炎を起こしてるかもしれない、そのため熱が出ていると言われた。
今日か明日だなと確信した。
(12/17時点での状態なので1月はもっと悪化していたはずなのに酸素2ℓでがんばっていた)
先生の呼び掛けに全く反応しない、でも私の愛してるよにはうん とうなづいてくれた。
面会時間が1時間から15分に変わってしまったのですぐに帰らないといけなくなった。
また明日ね という言葉が 本当にまた明日会えるのか分からず怖かった。
1/12 朝6時半頃に病院から連絡がきた。
内容も分かっている、ただ病院にいき、看取るだけ なのにパニックになるもんで、動悸がした。デパスがぶ飲みした。
病院に向かった。息が荒い、酸素は7ℓ、脈は推測40 (脈が取れない)
意識はもうなかった。
ミダゾラムという鎮静薬の効果というよりも、ガンによるものでの意識混濁だといわれた。
息が荒いのが続いたが、16時頃から下顎呼吸に変わり、あと1時間持つかな〜なんて予測していたら16時25分頃から呼吸がかなり変化
16時27分に1度息をし、16時28分に最後の息をして旅立った。
看護師さんが母親の体を起こしてくれ後ろからハグした瞬間にまだ暖かい母の体を感じ、よく頑張ったね、ありがとうと号泣した
母のパートナーにも、一緒にいてくれなかったら耐えられなかったと思う。ありがとうございましたと握手して一緒に泣いた。
こうして母の死は、医療麻薬や鎮静剤を使ってうまくコントロールし静かに家族と共に最期を迎えることが出来ました。
エンゼルケアは私がやった。お願いされていたのでキラッキラに、全部私のメイク道具で。私と同じ顔になりました。
そして母の命日となった1/12は旧暦で12/10 母の誕生日なのだ。
生まれた日に旅立つ、母親らしいなと思った。
このように半年間で
父親は突然死で孤独死、母親は3年にわたる辛い闘病生活の中でも最後は医療に頼り穏やかに家族に見守られ死ぬことが出来た
別の死に方をした両親を見て、私はどのように死ぬだろう
終わり方は母親のように医療に頼り、家族に見守られながら死にたい ただ辛い脳転移での苦しみや疼痛を見るとがんで死ぬのは絶対に嫌だ
父親は1人で死んだ。脳出血はほぼ意識ないから苦しまないと言われたけどうずくまって倒れていた様子を見るとキツかったのでは無いかと思う。
どんな死に方が良いとかは正解はないし、半年間で2人親を失ったって全然分からない。
でも、がんになって終末期に鎮静を行ったのは私は良かったと思う。顔つきも変わるし、話せなくなる、最期の言葉が聞けない、呼吸が不規則になるというデメリットはあるけど、ガンサバイバーの本人たちは、せん妄や身の置き場のない不安で苦しむ。母親を鎮静させて思ったのは、最期に聞く言葉が苦しみながら言った言葉よりも、鎮静させる前に「ありがとう 愛してるよ」とお互いに言い合った言葉でよかったと思った。
なので鎮静させてよかったと思った。
両親2人に対して後悔が全くない。たくさん娘としてやりきったから。
私もきっと長生きできない。
父親みたいに寂しさを紛らわせるために酒を浴びるように飲んでたくさんのものを残して死ぬか、
母親のようにがんと共に生き、苦しいこともありながらも終活をきちんとして、愛してる人に囲まれて死ぬか
どっちで死ぬか、どっちで死にたいかは分からないけど
2人はそれぞれ2人らしく旅立ててよかったとおもう。
2人とも穏やかな顔だから、息を吹き返すんじゃないかって錯覚してしまうけど
私も、もう親の心配をすることがないから、
子育てに集中できる
何気ない子供との生活も、両親が見たかった姿、良い人生だったと言っていた母親も孫の運動会や発表会をもっと見たかっただろうし悔しいだろう
父親ももっとおじいちゃんになった自慢を周りにしたかっただろう
父親は、子育ての手伝いは何一つしてこなかったけど、最後に会った時珍しく長男を連れてスーパーにいき、スイカを買って仲良く食べていた。
こんなに子供泣いてたら辛いだろう と言うので
子供の泣き声はもはや音としてみなしてるから
保育園にいる時間の方が長いし なんて辛さを誤魔化していたけど
それでも1人で(ワンオペ)育てるのは辛いだろうと辛さを感じとってくれた。
今までそんなことなかったのに初めてだったから嬉しかった
その後4人で布団で雑魚寝をして、子供が寝たのをみて安心して家を出ていった。それが最期の日。
突然死をする人も、本人なりに最期を感じ取るのかもしれない。
さっきも書いたけど、私はどんな死に方をするのか分からないけど
父親のように突然死するのなら会いたい人には会いたいと言い、好きな人には好きだと伝え、ありがとうを必ずいい、後悔ないようにこのまま生きていきたい。私はそれができたから、父親の突然死も悲しみはあるけど後悔はない。
母親のように病気になったとしたら、家族に甘え、サポートしてもらえるように、自分が人に甘えるスキルを身につけていきたい
自分の見た目も体型も嫌いだけど
私は彼らの娘としてやってきたことだけは誇りに思っている
よくやったよ私
よくやったよパパ、よくがんばったよママ
彼らの娘が私でよかったと思えるくらい 今は達成感で満ち溢れています
親に強くさせてもらえた ありがとう
もう親の心配することなくよく寝れるんだ
いつ警察からお父さんが道で倒れて亡くなっていましたと連絡が来るかと心配にならなくていいんだ
いつ病院からお母さんがそろそろ..と連絡が来るんじゃないかも思わなくていいんだ思う存分眠剤と共に眠って、子供と全力で穏やかに過ごそうじゃないか
2012.01.13