70年目の出来事
私は、整体の治療師をしています。
ご縁があってスポーツ選手のメンテナンスなどの施術もさせていただいています。1月、5月、9月に開催される大相撲の東京場所の前後は、力士もご来院いただきます。
ある関取から「申し訳ないけれど、両国まで往診をしてもらえないか。」とご依頼を受けました。いつも通ってくれる関取ですし、この日は休診日ということもあり、両国まで伺うことにしました。
関取からは「国技館近くのホテルをとってあるので、その部屋でお願いします。」とのことでした。
時間に余裕を持って出掛けると約束の時間よりもずいぶん早く着いてしまいました。待ち合わせのホテルを確認したあと、近くを散策することにしたのです。
清澄通りをぶらぶらしていると大きな公園があるので入ってみました。遠くにお寺のような建物や三重塔が見えましたが、約束の時間に遅れるといけないのでそちらには行かずにベンチでひと休みすることにしました。
すると、いかにもいなせな江戸の職人という感じの男性が「ニィさん隣りいいかい?」と言うので「どうぞ」と返すとその方は隣りに腰を下ろしました。
そして、こちらを見るでもなく話し始めるのです。
ここは昔、陸軍の被服廠ってのがあってな。被服廠ってのは、陸軍の軍服を作る工場さ。それが赤羽に移って取り壊されてだだっ広い空地になったんだ。俺らは、駅が近いからどうせ軍需工場が出来るんだろうと噂してたんだがな。
その日は、風がえれぇ強い日でな。外での仕事は危ねぇてんで昼前な、仕事切り上げてうちにけえって昼飯を食おうとしてたのよ。かかぁに早く飯にしろってせっついてたらグラグラって天地がひっくりけぇるじゃないか、ってくれぇ揺れて、金と商売道具だけ持って、かがぁとここまで逃げたんだ。
みんな考げぇることは一緒でここなら大丈夫だろうってんで大勢逃げて来てな。おしくらまんじゅうが出来るてぇくらい人で溢れてたのよ。
そこら中で火が出てな。自分ちが燃えてるかもしれなぇけど帰れる訳なぇからみんながたがた震えてたさ。
するってぇと火事の炎が竜巻みてぇになりやがる。人が大勢で逃げ場もねぇ。あっという間にみんな火だるまさ。
俺もかかぁも仲間もみんな死んじまった。
というと男の人は霞のように消えてしまったのです。
男の人の真に迫る話と消えてしまったことに怖くて、しばらく震えが止まりませんでした。
そう、その日は1993年9月1日。関東大震災からちょうど70年の日でした。
慌てて約束のホテルに行き、何事も無かったように関取の施術をしたのですが、部屋を出るとまた震えてきました。ホテルのフロントの方にそれとなく、関東大震災のことを聞くと、私が行った公園は横網町公園と言って中には関東大震災と東京大空襲の慰霊堂などがあるとのことでした。
その日は遅くなってしまったのと、あの場所にまた行くのが怖かったので日を改めて慰霊堂にお参りをさせていただきました。ここでは関東大震災の死者・行方不明者の10万5千人の1/3にあたる3万5千人もの方が亡くなった事実を知り、心から手をあわせたのはいうまでもありません。
夏の終わりの不思議な体験でした。
貴重な時間を割いて、お読みくださいまして、ありがとうございました。