見出し画像

武将の魂

私、実は己書という書画の師範をしておりまして…。
記事の見出し画像に使用している絵は、恥ずかしながら私の作品でございます。

有難いことに、ときどき書画の案件をいただきます。
その案件のひとつに、観光協会からのご依頼があります。
ご依頼内容は、町おこしの一環として、地域に伝わるむかし話の挿絵を描くというものです。

柏のむかしばなし(柏市観光協会)

このご依頼、今年で3年目になるので事務局長さんとのやり取りもとてもスムーズになり、絵のイメージも沸きやすくなりました。

今回は事務局長さんからお話ごとに挿絵に描く場面の提案がありました。お陰で、とても良い感じで筆が進みました。

ところがある絵で突然、筆が動かなくなったのです。これまで自分のイメージを絵におこすのが難しいということはあってもこんな経験は初めてです。

そのお話は、戦国時代のことです。
この地域の大津川をはさんだ追華城おっけじょうを拠点にする坂巻氏と対岸の戸張城とばりじょうを拠点にする戸張とばり氏の間で勢力争いを繰り広げていいました。

そして、戸張とばり勢が優勢になり、大津川を渡り追華城おっけじょうに攻め込んだのです。追華城おっけじょうを守る坂巻氏の大井勢も奮闘し、最後の決戦は両大将の一騎打ちとなります。
両将は、組打ちとなり田んぼに落ちて、どちらかが相手の鼻を食いちぎったという話が伝わっています。
その田んぼがあった場所を鼻喰田はなつけげと呼ばれています。

筆が止まったのは、戸張弾正とばりだんじょうが坂巻若狭守の居城・追華城おっけじょうに攻め込む場面です。下描きのラフなデザインまでは出来たのですが、いざ細かいことろを描き込もうとすると、戸張弾正とばりだんじょうが全く描けません。

描き始めると、気持ちを高めて一気に描いてしまいたい質なので、これにはほとほと困ってしまいました。そこで私に憑いている注1イドに聞いてみますと、いつもは頭の中に言葉が浮かんでくるのですが、この時は映像が浮かんできました。

それは、戦いに敗れた武将が敗走していくイメージでした。

戸張とばり氏のことをいろいろ調べていると

戸張とばり氏は天文七年(1538年)十月の国府台こうのだい合戦における敗北により戸張とばり城を去り、その後元亀・天正年間には古河公方の重臣梁田やなだ氏に属し、下河辺しもこうべ吉川郷(埼玉県吉川市)で活動した。

戸張城 - 古城盛衰記

という記述した資料がみつかりました。

お話の時点では、戸張とばり氏は戸張とばり城の城主と思われるので、国府台こうのだい合戦はこの後のことと推測できます。お話に出てくる戸張弾正とばりだんじょうと坂巻若狭守の合戦の年代は特定出来ませんでした。だから、お話に出てくる戸張弾正とばりだんじょう国府台こうのだい合戦で敗れた戸張とばり城の城主が同一人物なのかもわかりません。少なくとも2人は同じ血族だと思われます。

映像に出てきた武将は、それ以来何かを訴えかけてきます。しかし、特に悪さをするわけではありません。私は、映像に出てきた武将が国府台こうのだい合戦で敗れた戸張とばり城主と同じ人物のような気がしました。きっと戸張とばり城に未練を残して退却しただろうと想像しまいた。

幸い、近くに戸張とばり氏の菩提ぼだい寺と伝わる長全寺ちょうぜんじがあります。長全寺《ちょうぜんじ》へ参拝して、戸張とばり氏の一族を思い浮かべながら祈りを捧げました。

すると不思議なことに長全寺を出るとそれまで感じていた武将のイメージは消えていきました。そして、輪郭だけをとった絵に向かうと驚くことにスイスイ筆が進みます。

史実によれば、国府台こうのだい合戦は今から500年近く前にの出来事です。
幽霊の寿命は400年説がありますが、無念を残した実在の人物を絵などに蘇えらせる時には、この限りではないと思いました。

これからも亡くなった実在の人物を描くときには、亡き人に供養と感謝の気持ちを持って臨みたいと思います。

四谷怪談は、舞台などにかけるときに関係者が於岩稲荷おいわいなりへお参りするという話を聞きます。同じようにモデルになった方がいる場合は、大切なことなのかもしれないと、感じた不思議な話でございました。

貴重な時間を割いて、お読みくださいまして、ありがとうございました。


注1:ガイド 私に憑いていて、助言や示唆を与えてくれる目に見えない存在です。スピリチュアル界隈では、ハイアーセルフや守護天使や守護霊などと呼ばれています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?