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教育は何のためにあるのか。人類のためか、経済のためか。
みなさん、こんにちは。本当にありがたいことにブログを投稿するたびに各所から反響をいただきます。
上記のブログについては、noteが選出するスタートアップマガジンにも掲載され、多くの方から注目をいただきました。多くのいいねやシェアをもらうことを目的にやってきたわけではありませんが、動画等のビジュアルで訴えるメディアでなく、かつ私のブログは最低3000字のものなので、こうして多くの方に触れていただけるのは嬉しい限りです。
ですので、これまでは自分のペースでと考え、月に1回の発信でしたが、少し頻度を増やして8月からは3本程度を発信できたらと考えているところです。
さて、今日は教育事業をやっている私にとって、ど真ん中のトピックスを考えていこうと思います。
教育とは何のためにあるのか。
ここでいう教育とは、生まれてから企業等で働くまでの過程のことにしたいと思います。
ですので、今回は社内教育や社会人教育は一部除外して考えようと思います。なぜなら、ここでいう教育とは多くの場合は経済活動の促進において行われるケースがあり、その場合は議論の余地がないからです。
今回は「学生」と呼ばれる括りで考えようと思います。
教育とは?
そもそも教育の目的とは、どのようなものでしょうか。文部科学省では以下のように定義されています。
第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
https://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/pdf/kenkyu_01.pdf
詳細については以下になります。
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基本的には、「人格の完成を目指す」「平和的な国家及び社会の形成者として心身ともに健康な国民の育成を期すること」であると言及しています。
非常に抽象的なので、細かくはぜひ文部科学省のページを見てもらえればと思うのですが、なぜ今日はこのテーマについて述べようとしているかというと、昨今の教育論調として「探究」や「アントレプレナーシップ教育」、また大学教育における「就職の前倒し」など、経済活動に直結するような題目の教育がかなり侵食してきています。
これ自体を批判しているわけではありません。弊社自身も「ソーシャルアントレプレナーシップ教育プログラム『ARISE』」を提供している身ですし、もっとこのようなプログラム自体が全国で広がってほしいと切に思っています。
一方で、教育にはもっと自由であるべきなのではないか、そして、学びそのものの面白さや味わいを尊重すべきなのではないか、そんな気もしているのです。
みなさんはどのように考えるでしょうか。
今日はこのテーマについて考えていきたいと思います。
我々は、経済活動に直結する教育活動をすべきか?
さて、まずは経済活動に直結する教育活動をすべきか、という問いを考えてみましょう。
答えはイエスであり、ノーでしょう。
やはりバランスが大事だと考えます。これまでの学校教育、大学教育ではどちらかというと読み書き計算ができることが重宝されていました。
これはいうまでもなく、そのような人材が経済活動においては重要な資質能力であり、社会全体が求めてきたことであります。
現代社会においてはテクノロジーの発展により、基礎的な読み書き計算能力はデジタルに頼り、人間としてはさらに高度なスキルが求められるようになりました。思考することであったり、創造することが求められるのが現代社会なわけです。
そこに学校教育全体が適応しようと教育カリキュラムを変えていくことに関しては大賛成であります。
他方で、最近ではそうしたものに加え、より実践的に使えるようなスキルを育むような風潮もあります。
いかにお金を回していく感覚を養えるか、社会人になった時にどのようなスキルが必要かのような、かなり実践的に寄せた内容のプログラムも入ってきています。
もちろんそれ自体は必要なことだと思います。
これまでは学生にとって、企業で働くということは完全にブラックボックス化されており、大学3年生になっていきなりリアリティが増していくのが現状です。ですので、一定イメージができるような何らかの措置は必要でしょう。
しかしながら、それを果たして授業時間を犠牲にしてまで必要なのかと言われるとそれもまた少し違うのかもしれません。
皆さんはどのようにこの問題を考えますでしょうか。
高校生の3割は今学んでいることが将来に役立つかわからないと回答している。
2018年に調査した学研教育総合研究所の高校生白書では、約3割の高校生が学校で学んでいることが将来役に立たないと回答しています。
この事実は、確かに先ほど指摘した企業等に就職した際に、どのような知識が求められるのかをイメージできないが故に生じている回答だと言えます。
少し話は変わりますが、最近では応用研究の方が注目されていると聞きます。
応用研究とは、企業や学校、社会などの場で生じている個別の問題の具体的な解決策を明らかにしようとする科学研究のことです。
これはより研究開発 (R&D)と経済活動が密接に関わっているからこその事象であることがうかがえます。経済活動をさらに促進させるためにスタートアップや大手企業は積極的に研究の領域にお金を注ぎ込みます。そうすればより人材も流れて、応用研究が進むという仕組みです。
他方で、基礎研究については対極に位置します。
基礎研究とは、特定の理論や現象、自然法則に関する理解を深めることを目的とする科学研究であり、未知の現象や法則を明らかにすることや、知的好奇心を満たすことを目的として各種データを分析します。
基礎研究は、人類がまだ見ぬ世界を解明しようとするアプローチです。簡単に言えば、雲を掴むような領域に対して投資をする行為になります。
いつそれが実用化されるかもわからない、そもそも答えがそこにあるかもわからないものに対して研究をするわけですから、こうした不確定要素が大きい領域には、企業もお金を投資しづらいため、基本的には国からの助成金等によって成り立っている領域です。
なぜ私がこの2つの例を示したかというと、まさに教育現場でも、この2つの類似した領域の悩みが生じるのではないかと考えています。
最近ではゼロ高やHR高等学院、そして神山まるごと高専など、ビジネスの世界で活躍する人を育成することに特化した学校なども台頭してきています。
これらは、起業家やクリエイターといった社会での実践者を増やすことが第一に掲げられている教育機関です。大手に企業やスタートアップにとっては、彼らの学んでいることが直結し、おそらく即戦力として活躍できる可能性を秘めた生徒たちを輩出する機関になっています。
そして、神山まるごと高専は、企業とのパートナー制度を通じて資金を集めています。これはまさに応用研究のように、企業にとっての先行投資にもなっているわけです。
他方で、基礎研究の方はというと、これまでの従来型学校がそれにあたるかと思います。
国数英理社の5教科を基礎科目とし、網羅的に学習するわけです。どこに個人の中で興味関心が湧くかはわからないまま、まずは全ての教科、単元に触れて、自分との相性がどこにあるかを探ります。しかしながら、その相性の良いものが経済合理性の流れに則ったものもあれば、ないものもあります。
みなさんはこの考えに対してどう考えるでしょうか。
学び自体を楽しむこと
約2年前に以下のブログにおいても同様の問題提起をしてきました。
表現や感じ方は変わっても、この2年でさらに教育が人材育成の要素が入ってきていると感じています。
しかしながら、どんな授業、どんなプログラム、どんな教材を導入するにしても、本来の教育の目的さえ見失わなければ良いのだと思います。
第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
この「人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者」に向けた取り組みであることが重要であるということです。
平和的な国家及び社会の形成者とは、資本主義社会においては経済活動を推進することができる人であり、また社会の中で自律的に活動ができるとも言えるかもしれません。(他にもたくさんあると思いますが)
そのように考えると、アントレプレナーシッププログラムや探究活動で社会課題解決のための活動は、一社会の形成者を作り出すために有効な手段の一つとも言えるかもしれません。
みなさんはどのように考えるでしょうか。
そして、2024年8月7日には「未来をつくる学び ~学生・企業の共創フォーラム~」を開催します。
まさに私たちは「何を学び」「どのように学ぶのか」を学生から社会人まで世代を越境して対話するイベントになっています。
ぜひご参加ください。