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教職実践演習 1日目

 ※この記事は教職実践演習で感じたことを回想して書いたものです。その為、私見が多く混ざります。

 教職実践演習 1日目が始まった。私の胸中は複雑だった。なぜか、私は教育学研究に惹かれ教育学研究科へ進学するからだ。教育実習を経て、教師にー特に小学校教員にはーなる気は微塵もなかった。それにも関わず、免許の為に「実践」と銘打った学術でも実戦演習(ケーススタディ)でもない教員の皆さんのご高説ーもとい武勇伝ーを聞くために対面授業をこの時期(2020年12月)にするのか。教員養成を研究する身としては好奇心をそそられるが、果たしてその期待にこの授業は答えられるのか。そんな好奇心と疑念を抱いていた。

 当然だ。なんせ担当は現場出身の特任教授陣なのだから。これまでの特任教授の授業で好奇心と疑念を持って挑んだ殆どー9割9分9厘、控えめに見ても9割9分ーが好奇心を潰され、疑念が正しいことを証明されてしまったのだから。

だからこそ、毎回のルーティンとして好奇心と疑念をそれぞれ50%フェアに持つことにしていた。それがせめてもの私が”授業”に抱く期待だったのだから。

 0900のチャイムが申し訳。ついに、教職実践演習が始まった。なんと自己紹介だけで終わった。特任教授が嬉々として自分の勤務実績だけを語り、小学生がやりそうな名刺交換で終わった。そして、グループを適当に決めた。その瞬間に疑念が勝った。この授業もどうせ、「いつもの様に」金太郎飴のような模範解答を期待するんだろ?そう思った。

その後もダラダラと武勇伝を挟みながら、ついにグループ討議となった。いつもの様にーなまじ知識があるからという理由だけでーグループのリーダーになった。私を含めて4人のグループ。他は全て女子学生。教師にならないのは私だけ、いつもの様に「異端児様」であった。

 私は思った。お前ら、4ヶ月後には教師になるのだろ?少しはリーダーシップを取るとか主体的に動けよ、と。

 だが、哲学対話の手法で議論をしたいと言った瞬間にグループが「世界から隔絶された」。集団全員でゾーンに入ったのだ。学友以外では初めての体験だった。

 与えられたテーマは学習指導要領のポイントや考えたことを考えよう!ーだった。サッサとポイントを確認した私たちはこのような問を立てた。

私は言った。「私は視点が違うから教師を目指す人達だから聞きたい。指導要領ってどうして守らないといけないの?」と。勿論、学習指導要領に法的拘束力があることは知ってる。しかし、聞きたかったのだ。今を生きるはずの、教師になる者たちが死んだような目をしてどのように語るのかを。

ひとりが言った。「守らないといけないから」と。恐らくは法的拘束力があると言いたいのだろう。そのように要約し、確認をとった上で、私は問いかける。「本当にそれだけ?」

 沈黙、答えはない。ーダメか、やはり教員養成に浸かっていると考えることを放棄してしまうのかーそう考え、悲しくなった。だがもう一度だけ言おう。「なぜ?なんで指導要領っていう基準があるの?自分で授業をした方がいいじゃない。」他の学生の目が変わった。生き返ったのだ。死んでいた目が生き返ったのだ。

私がそう言うと。女子学生の1人が「平等にしないといけないから…」と言った。「平等」という言葉に私は飛びついた。「平等?平等ってどんな意味で?」彼女は続けた。「平等…ーーだって、学校は公教育だからどの子どもにも同じ教育をしなきゃいけないから。」なるほど、そう来るか。公教育故の平等。まぁ、そうさな。

 だが、しかし、グループの中でひとり発言するのはたまにある。他の学生が考えていない可能性がある。それでは(私が )つまらない。せっかくの対面で学ぶ意味が無くなる。相互的かつ即時のフィードバックの応酬が行われる刺激的な学びが無くなる。

他の学生に問うた。「平等、公教育って言ってたけど、それだけで従わないといけないのかな?」一端の沈黙を挟み、私は自由の相互承認について軽く説明した。すると、「指導要領って自分の調べられないようなことを調べてくれている。だからそれを私は生かすんだ」、「私は結局従うだろうなぁ…」などとポンポンと意見が出た。従うだろうなと言った学生は落ち込んだような目をしていた。その学生に私は言った。それは私が教師になりたい時に思っていたことだった。「従うということを自覚してるだけで違うと思う。ただ守るよりもよっぽど建設的だと思うし、すごい…」心からの声だった。

 そこから、授業の話題になった。なぜ、ティーチングをするのか。どうして理想の授業ができないのか。教育の専門家として様々な手法を用いて授業をするべきではないか。そう口火を切った。

熱い議論があった。まさに私の熱き血潮が滾った。

なぜ、ティーチングに頼るのか。それは「理想とする授業と授業時間内に終わらせ標準時数内に学習を収める必要があるということの葛藤があるから」だった。その理由は「公教育は平等にしなければならない」ということから来ているという。そして、教科書の目当てに沿うのは「それがアンパイであり、安全策だから。子供たちに確実に学んで欲しいから」だと。さらに、理想とーそう思っているー授業ができないのは「保護者や周囲の教員の圧力がある」からだと。

そんな形で白熱した議論が続いた。結果、グループの皆で納得する結論が出た。ティーチングに依存してしまうのは「理想とこなさなければならない現実との葛藤で、安全策を選んでしまうから」だと。

 ならば、教育のプロとして、どう授業をデザインするのか。その話題に入ろうと言う時に、特任教授の「はい、おわりねー」の声が響いた。この時ほど、時間というものを恨めしいと思ったことはない。そして、いつも通りの金太郎飴のような報告が響く中、私は充実感に浸たりつつ、グループの「同志」と対話を続けていた。そして、それを報告した。

 何にも変え難い時がここにある。そう思えた1日目だった。

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