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カーテン・コール / 10i を聴いたオタク、解像度高めに妄想する

 音楽を聴いたときに、歌詞に描かれた世界を妄想するのってオタクの習性だと思うんです。今回の記事では、僕ことオタクが カーテン・コール / 10i を聴いて脳内に溢れ出した世界や感想をつらつら書いていきます。
 ただ、オタクがボコボコと書き殴った文章を読むのも面白くないはず。そこで、単なる妄想よりも、曲の世界観の解像度を高めにした高品質な妄想を垂れ流していきます。
 それでも需要がない??まあご覧になってくださいまし。
 念のため目次も置いてきますが、長さにびっくりしないでね。

 あっ、その前に一度曲を聴いて歌詞を読んできてくださいね。

1. 豊かに妄想するための事前準備

1.1 全知の視点から世界観をセットする冒頭

 歌詞から世界観を妄想する前に、何かメッセージを伝えようとか応援しようとか、そういった歌詞ではなく、物語や詩のような歌詞を対象としているという前提で考えてください。
 さて、最初に考えなければならないことは、この歌詞に描かれている世界はどのような場所で、誰が出てくるのか、ということです。もっと踏み込んで妄想するには、この歌詞の世界はどのような視点で描かれているのかまで想像すると良いと思っています。視点というと分かりにくいのですが、言わば「この世界を私はどこから見ているのか?」という妄想する側のカメラのある位置を考えると分かりやすいかもしれません。
 それでは、冒頭の4行の歌詞を読んでみましょう。

暗い森の奥から
聴こえてくるのは歌声
誰がためにうたうの
途切れ途切れ紡ぐように

動画概要欄より

 冒頭は、暗い森から歌声がする様子を三人称の視点で描かれています。三人称の視点というのは、物語の世界を全て見渡すことができる神様のような視点のことです。
 僕は、昼でも木々が鬱蒼と生え、陽が遮られて暗い森を歩いているような感じで場面を想像しました。暗い森は見通しが悪いにもかかわらず、音だけはこちらにじんわりと響いてくるような、そんな森ですね。
 ただ、「誰がためにうたうの」という歌詞から孤独感が滲んできます。「途切れ途切れ」という言葉からは、音の発生源の遠さとともに、どこか壊れかけのような終わりを感じさせます。MVの最初の砂時計も刻一刻と過ぎていく時間を表現しているようです。

0:08

 砂時計が意味するものはそれだけではないと思うのですが、今は触れません。長くなるので。
 要するに、寂寥感のある歌声が響く暗い森がこの歌詞の世界観というわけです。ただ、MVではどこかの廃墟で孤独に歌う人形のような人物が踊り歌っているように描かれています。森の奥にある廃墟がメインとなる舞台なのでしょう。

0:43

 すでに4行だけで大まかに世界観をイメージすることができました。次からは、いよいよ人形のような人物に焦点を当てていきましょう。

1.2 人物の内面を描き出す視点へ

 冒頭以降の歌詞を一旦見てみましょう。

ゆらりゆれる月
差し込むひかり
続く一人芝居(モノドラマ)
まるで他人事のように

刻まれた笑み 哀しく
奏でる星の調べ
いまでも目蓋に映る あの場面(シーン)

動画概要欄より

 ここでは登場人物の心情や、その人物から見たり聞いたりしたものが描かれています。このような視点は一人称の視点といいます。
 ただ、「冒頭の視点とあまり変わらないんじゃない?」と思う方もいると思います。勘のいいガキ、いえ鋭い読者ですね、大好きです。
 そうした三人称の視点からある登場人物の一人称の視点へと、視点が移動することがあります。先ほど、三人称の視点は「物語の世界を全て見渡すことができる神様のような視点」と言いました。つまり、その世界で起きること全て知っている視点が三人称なのです。その視点から歌詞の読み手へと情報を教えてくれる存在━ここでは語り手としておきましょう━は、登場人物の内面に潜りこむのです。そうすることで、語り手は私たち読み手へと登場人物の見たものや心情までも教えてくれるのです。
 このように登場人物の内側に入り込んで、一人称の視点に焦点を当てることを一人称の内的焦点化といいます。
 では、登場人物の視点に移動する、つまり内的焦点化が行われているとわかるところはどこかというと、サビのラスト「いまでも目蓋に映る あの場面」というところです。ここでの「目蓋」が誰のものなのかを決定していませんでした。これでは語り手の目蓋なのか、人形のような人物の目蓋なのかはっきりとしません。しかし、もっと先の歌詞を見ていくと確実にわかる箇所があります。

なにも感じない
みんなそう創られたから
なのに胸を絞める
この痛みはどんな不調(エラー)

まわりまわる世界
いつまで続く
軋むこの身体

動画概要欄より

 「なにも感じない」や「軋むこの身体」という歌詞から、何かを感じ取ったり思ったりする人物に内的焦点化しています。これは神様のような語り手でもなければ、あるいはこの世界の中を彷徨い歩く自立した語り手でもありません。
 分かりにくいので補足すると、語り手と登場人物としての「私」と自分を呼ぶような存在が一致することがあります。「吾輩は猫である」と言った場合に、猫である語り手は一人称のままに世界を見回しています。そのような三人称ではなく、また内的焦点化されることなく最初から一人称の視点で語る場合もあります。
 話を戻すと、人形のような人物が「目蓋に映る」ように思い出される過去に思いを馳せ、自身の身体に「軋む」感覚を覚えていることが描かれているのです。
 こうした内的焦点化された語りは最後まで一貫しています。

ふりしぼる 最期の声
刻まれた笑み 眩く(くるめく)
奏でる夜の調べ
いまならわかる気がする この心象(こころ)

動画概要欄より

 上の引用はこの歌詞の末尾なのですが、「いまならわかる気がする」と思っているのはまさしく人形のような人物でしょう。
 このように、冒頭以降の歌詞は全て人物が見たものや、その内面を描いていると想像すると、よりこの歌詞に没入できると思います。

1.3 補足:三人称の視点から一人称の視点への移動

 これは読み飛ばしてもらっていいのですが、冒頭は三人称の視点で描かれており、それ以降は一人称の視点だと言いました。しかし、いきなり視点がスッと切り替わっているような印象は薄いと思います。
 こうした視点の変化については、風景を映している画面がいきなり人物の目線を映した画面に切り替わるわけではないと考えています。というのも、風景に人物が映りこみ、映画のカットオーバーのように、次第に風景の映像に人物が見ているものが映し出されていくような視点の移動がここには読み取れるのではないかと。
 映画的な視点変更、まるでモンタージュのような編集的要素が世界観の描写にまで含み込まれているように私は妄想しました。

2. 視覚、聴覚から思考へ、あるはずのない心へ

2.1 最初は視覚から

 それでは、歌詞をじっくり読んでいくこととしましょう。
 実は、この記事を視点から始めた理由は、妄想を加速させるためという理由だけではありません。そもそも、この曲の歌詞自体が視覚的なイメージから始まっているんです。

暗い森の奥から
聴こえてくるのは歌声
誰がためにうたうの
途切れ途切れ紡ぐように

ゆらりゆれる月
差し込むひかり
続く一人芝居(モノドラマ)
まるで他人事のように

刻まれた笑み 哀しく
奏でる星の調べ
いまでも目蓋に映る あの場面(シーン)

動画概要欄より

 1番の歌詞を見てみると、冒頭から「暗い森」という場所や、月の「差し込むひかり」という視覚的なイメージが散りばめられています。「星の調べ」も音はなく、視覚のみのイメージだといえます。
 このように、冒頭以降では、人形のような人物がその眼で見ている物が描かれています。「続く一人芝居」や「目蓋に映る」という歌詞からは、荒涼とした現在とは全く異なるにぎやかしい過去との対比が読み取れます。こういう虚無感っていいですよね。僕は大好きです。
 自然の光によってしか世界を見渡すことができない窮屈さが、「一人芝居」という孤独感をより強くしているように思われます。

 さて、聡明な読者諸氏であれば、「おいおい、すっ飛ばした歌詞の部分に『歌声』ってあるぞ。視覚だけで1番を乗り切るのは無理があるんじゃないか?」とお気づきのことと思います。
 その通りです。意図的にすっ飛ばしました。というのも、冒頭4行にはまだ妄想の手がかりがあるんです。
 最初に視覚に注目した理由はすでに書きました。次に注目するのはお気づきの通り「歌声」に関わる聴覚です。最後は、この章の見出しにある通り「思考」です。いきなり「思考」というのは飛躍している感じがありますが、「誰がためにうたうの」という疑問はまさに「思考」の言語化です。これから見ていくように、歌詞の2番は聴覚に対応し、最終場面は「思考」に対応しています。最終的に考えていくことですが、「視覚」と「聴覚」が「思考」へと生成変化する流れは、前章の補足に書いた映画的な要素と響き合っています。
 このように、冒頭4行はこの歌詞全体、この世界観全体を想像することを触発するような構成になっているのです。しかも、それが三人称視点という全知=神の視点から描かれています。神の目線で今までに起きたことも、これから起こることも全て見渡してきた上で、その世界を描いていくことが暗示されているともいえます。
 何気なく過去から未来を見渡すという時間に関わることも書きましたが、「途切れ途切れ紡ぐように」という歌詞がすでに断続的な時間の経糸を表現しています。次の章は歌詞の世界の後ろでひっそりと、しかし確かに流れ続ける時間に注目します。
 ネタバレはここまでにして、次の節にいきましょう。

2.2 より近い身体感覚、聴覚へ

 先ほど書いた通り、この節では2番の歌詞に、特に「聴覚」に注目をしていきます。
 まずは歌詞を見ていきましょう。

なにも感じない
みんなそう創られたから
なのに胸を絞める
この痛みはどんな不調(エラー)

まわりまわる世界
いつまで続く
軋むこの身体
遠くない終焉(おわり)の音色

刻まれた笑み 虚しく
奏でる風の調べ
いまでも脳裏に響く あの言葉

動画概要欄より

 多分、「『聴覚』って言ったのに「痛み」とか「身体」とか書いてあるし、注目する観点違うんじゃないですか?」と指摘したくなっている人もいると思います。若干苦しい言い訳のような言い分をこれからつらつら書いていきます。
 最初に注目したのは「視覚」ですが、視覚は聴覚に比べて距離感があります。それは光が46億光年離れていても届くのに対し、音は10kmも離れるとほとんど届かないという物質的な性質もあります。しかし、もっと人間的な感覚で考えてみると、世界のあらゆるものから届いた情報を網膜がキャッチすることで見えている視覚に対し、聴覚は音波が鼓膜を直に震えさせることで情報が伝わってきます。身体に直接訴えている感覚がより強い方は聴覚であるといえます(すみません、だいぶ苦しい)。まあこまけぇこたぁいいんだよ、ってことで歌詞を見ていきましょう。
 2番では胸を絞める「痛み」や「軋む」身体という、直接的な身体的感覚が描かれ、「遠くない終焉の音色」や「脳裏に響く あの言葉」と聴いたものが描かれていきます。「風の調べ」も、風は聴くことはできるし、僕たちは身体全体で風を感じることもできます。しかし、風を見ることはできません。もっと言えば、「なにも感じない」という心と結びついた感覚や「痛み」という痛覚も見ることはできません。そうした感覚は全て内的なものであり、言語に変換しなければ、他人はそれを視覚的に知ることはできません。たとえ他人の身振りや表情からそうした感覚を想像することは多少できるにしても。本当は言語の音声中心主義についても触れたいところですが、今回全く関係ないので触れません。
 このように、2番は身体に直接作用するような感覚に焦点が当てられています。「何も感じない」はずなのに、「胸を締める」痛みがあるという「不調」も、心の呼び水になるように描かれています。しかし、僕が2番で特に注目したいのは、「遠くない終焉の音色」という表現です。
 「いつまで続く」か分からない永遠にも思える世界の中で、「軋むこの身体」をもつ人物の有限性が対比されています。そこから考えると、「終焉の音色」とは身体が終わりに近づき崩壊していく音であるとも言えますし、「途切れ途切れ」となって歌が本来の歌の形を残せなくなってしまっている状況を示す音だとも言えそうです。
 身体が終わりを前にして歌えなくなっていく、そうした身体の内部の音と外部へと発せられる不完全な歌が「終焉の音色」のように僕は感じました。

2.3 運動をやめる身体から至る思考

 最後に、最終場面の歌詞を見ていきましょう。

足がもつれ倒れ込んだ
音も光もおぼろげに
いやよ まだうたっていたいの
これはだれの夢想?(ゆめ)

ふりしぼる 最期の声
刻まれた笑み 眩く(くるめく)
奏でる夜の調べ
いまならわかる気がする この心象(こころ)

動画概要欄より

 「足がもつれ」るほどに身体は思うままにならず、「音も光もおぼろげに」なっていく。いままでの歌詞で見てきた「視覚」も「聴覚」も機能せず、この人物の最期が近いことが描かれています。
 しかし、今際の際になって「いやよ まだうたっていたいの」と、今まで「なにも感じ」なかったはずなのに、ここにきて明確な意思を持ちはじめます。「これは誰の夢想?」と自らの中にある意思が、誰のものであるかも考えるようになります。「いまならわかる気がする この心象」という歌詞からは、「心」がはっきりと姿を表していることもわかります。
 こうした身体的感覚から急に「思考」や「心」に芽生えていく過程は、一見すると飛躍があるように感じます。そこで、見聞きしたものから新たに思考が発生していくことについて述べたドゥルーズの『シネマ』という映画を元にした感覚や思考に関する書物を補助線にして考えてみましょう。

 ドゥルーズは、『シネマ1 運動イメージ』(一九八三年)の中で、古典的な映画を支配する「運動イメージ」なるものを論じた。運動イメージとは、知覚と行動の連鎖によって定義されるイメージである。登場人物がある事態を知覚する。その知覚は、その人物に行動を促す。ドゥルーズの言い方で言えば、状況が直接に行動と受動に「延長」される。(中略)運動イメージにおいては、イメージに、既に解読された意味が貼りついており、人物はその意味を感じ取り、行動へと延長する。そこでは、状況と行動が合致している。(中略)ドゥルーズは、感覚と運動が連動するという意味で、これを「感覚運動的状況」あるいは「感覚運動的イメージ」などとも呼んでいる。

國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店、2017年9月、106〜107頁)

 「運動イメージ」とは、例えば、ある男性がかわいそうな少女を見つけるとする。そのときに、「助けられるべき」だと男性が感じたことで、助けにつながる行動を促すようなイメージのことです。
 しかし、ここで述べられている感覚が運動と連動するようなイメージは歌詞には描かれていません。むしろ、見たものや聴いたものとは少し距離があるような、隔絶するように登場人物は存在しています。しかし、登場人物は何かを見てはいるし、聴いてもいます。
 そもそも、この人形のような人物は「創られた」のであり、人間的ではありつつも、どこか物質のようです。そのような人物が思考を巡らせ、心でものを思う状態に至るという流れを考えるために、先ほどの引用の対となる「時間イメージ」を見てみましょう。

 運動イメージは、しかし、映画史の中で或る危機を迎えることになる。この危機とともに現れた「時間イメージ」なるものを論じたのが『シネマ2』である。(中略)では、時間イメージとは何か?それは「何をなすべきか」が明らかでないイメージである。知覚はもはや行動へと延長されない。登場人物は、状況に反応することができず、状況の中をたださまよう。(中略)主人公は二年の失業を経て、やっと仕事を手にする。喜ぶ家族。ところが、その仕事にどうしても必要だった自転車が盗まれてしまう。彼は息子とともに必死に自転車を探す。しかし、時間だけがただ無情に流れていく。息子はただ父を眺めることしかできない。映画の最後の場面、自転車を盗む父親を見て、息子はただ涙する。
 時間イメージにおいては、登場人物の行動とは全く無関係に空虚な時間がただ流れていく。ここにあるのは、その中で起こることとは無関係にただ流れていく時間を直接に提示するイメージである。意味を剝奪された純粋なイメージという意味で、「光学的-音声的なイメージ」とも呼ばれている。(中略)運動イメージの映画では、登場人物が状況に反応し、行動した。それを見る観客は、登場人物に同一化することができた。時間イメージの映画においては、むしろ登場人物が観客のように自分が置かれた状況をただ観察する。

同上、107〜108頁

 歌詞の人形のような人物は、「まわりまわる世界」で「月」や「星の調べ」を見ては、ある「場面」を回想しています。さらに、「終焉の音色」や「風の調べ」、そして誰かの「言葉」を思い出しています。登場人物は悠久に続く自然だけが残された世界を見聞きしながら、過去に思いを馳せています。こうした一連の場面を想像してみると、登場人物の歌う行為とは無関係に空虚に時間が流れていく「時間イメージ」のような世界観が描かれていると言えます。「視覚」と「聴覚」がそれぞれサビで重要度を持って描かれていることも、「光学的-音声的なイメージ」という「時間イメージ」の特徴と重なります。
 では、この時間イメージには、どのような効果があるのでしょうか。いきなりこのイメージの効果を見る前に、ちょっとだけ人の認知に関わる知識を確認します。

一つは、自動的あるいは習慣的再認。たとえば、牛は草を再認し、そしてそれを食べる。(中略)自動的再認では、知覚は習慣的な運動へと延長される。もう一つの再認は、注意深い再認である。これは、人が出会った対象の再認になかなか成功しない場合のそれである。注意深い再認では、知覚が何かに延長されることがない。人は何度も対象に立ち返り、回想を繰り返し、そこから「いくつかの特徴」を引き出そうとする。「あれは何だったか?あれだったか?いや、これだったか?」と、引き出した特徴から得られるアイデンティフィケーションを消してはやり直す。(中略)自動的再認がもたらすのは知覚から運動への延長であり、そこに現れているのは感覚運動的なイメージ、すなわち、知覚と運動の連鎖として定義された運動イメージである。(中略)だが、この再認(引用者注:注意深い再認のこと)は我々に、対象の特徴を描写しては消し、消しては描写しという作業を強い、そのつど対象へと向かわせる。我々は、したがって対象の特異性と直面することになる。そのつど得られる特徴は、確かに簡素なものであろう。だが、それによって我々の前には、単に光学的で、音声的なイメージが現れる。

同上、108〜110頁

 「再認」という言葉は聞き慣れませんが、要するに何かを見て、過去に見たものを参照し、「それはこれだ」と認めて理解するという意味です。その意味で言うと、自動的再認は、赤く丸い果物を見て「これはりんごだ」と迷うことなく理解することを指します。
 それに対して注意深い再認は、もこもこと毛に覆われている四つ足の動物で、目の周りの黒い毛が特徴的な生き物を見たときに「これはタヌキか?いやハクビシンかもしれない、あるいはイタチ…そうでなければ…」と、目の前の生き物に、過去の知識やイメージが合わないであれこれと考えてしまう再認のあり方です。
 この2つの再認のあり方が、先ほどの2つのイメージに対応するのです。

 自動的再認がもたらすイメージ、あるいは運動イメージには、いわゆる主体性が現れている。それは、知覚から行動への移行ないし延長としての主体性である。つまり、何かが知覚され、それが行動へと延長される、その延長が主体性と言われる。これをドゥルーズは、知覚と行動の隔たりが生じると、たちまち主体性が現れる、と言って説明している(中略)自動的再認においては、その知覚から移行するべき行動はあらかじめ決まっている。ドゥルーズはこの主体性を「第一の主体性」と呼ぶのだが(中略)、これは延長の仕方が決まっており、新しいものを何ももたらさない。
 では、注意深い再認の方はどうだろうか?それは回想(「回想イメージ」)によって起こる。「あれは何だったか?あれだったか?これだったか?」回想もまた、先の隔たりを埋めようとする。そして、もしもこの隔たりを埋める作業が最終的に成功するなら、それによって自動的再認のもたらす感覚運動的な流れが回復する。「ああ、そうだ、ここは工場だ…、それは働くべきところだ…」。ところが、注意深い再認が単に回想に終わらず、「我々を個別的に知覚へと連れ戻し」(中略)何か潜在的なものを現動化させることがある。(中略)ここから何が言えるか?(中略)注意深い再認が成功するなら、それは単に再認に時間がかかっただけのことであり、自動的再認がもたらす感覚運動的な流れに再び合流することになる。しかし、回想がうまくいかず、感覚運動的な延長が中断されたままのとき、注意深い再認が次の行動へと延長されず、何か潜在していた要素と関係を結ぶことがある。(中略)これはもはや、知覚や行動の隔たりを埋める、いわゆる主体性ではない。(中略)そこに現れるのは、第二の主体性である。これをドゥルーズは「物質に「付け加わる」」主体性と呼んでいる(中略)なぜその主体性は「物質に「付け加わる」」主体性と呼ばれるのだろうか?(中略)主体が自ら見出した客体に向かって主体性を発揮するのではなく、世界という物質の要請ないしは必然性に合致するようにして新しい主体性が発動するのだ。

同上、111〜112頁

 ここでは、「時間イメージ」に対応する「注意深い再認」は、何か潜在的なものをこの世界に現実に存在させることがあると述べられています。しかも、そのように現動化させるときには、通常の自動的再認とは異なる形で主体性が立ち上がると言います。
 一旦、厳密な理論の理解ではなく、「これは何だろう?」と注意深い再認を働かせるような時間イメージを捉えようとすることで、通常の感覚から運動へと繋がる主体性とは違う新しい主体性が立ち上がると理解しておきましょう。
 そうすると、過去の「場面」や「言葉」、さらには自身の胸を締め付ける「痛み」が、人形のような人物の中で意味を成さず、「なにも感じない」ままであった状態から「心象」へと生成したと言えます。歌詞がほのめかしているように、過去に存在した登場人物以外の人間の様子や言葉に触れたことを回想し続けるという潜在的な行為が、人間と同様に身体の終わりを予期することで、人間のような心をもつ主体へと変化したのではないか、と考えました。以上、全部妄想です。厳密さは皆無です。
 もっと厳密に説明するのであれば、ドゥルーズの『差異と反復』で述べられている「超越論的経験論」という、知覚したものが集積していくことで主体となっていくという議論を引用してくるのが適切です。しかし、これはただのオタクの妄想なのでそこまでしません。
 いずれにしても、人形のような人物が回想する「場面」や「言葉」は、たとえ「なにも感じない」ように「創られた」としても、それらの知覚は潜在的な次元に漂っていました。それらが長い時間を経て体が壊れ、今までこの世を去っていった人間と同じように自分もこの世を去る命運にあることをこの人物が感じ取ったことで、胸の「痛み」は有限性を前に必死に生きる人間の「心」であると認識し始めた、というのが最後の「いまならわかる気がする この心象」という歌詞なのではないか、と僕は考えました。
 念押しをしておきたいのは、最期まで登場人物は「心象」というものが何かを理解しているわけではない、ということです。「まだうたっていたいの」と自身を最期まで突き動かす情動は、まるで終焉を拒む人間の心のあり方とそっくりですが、創られた存在であるからこそ、理解しきることはできないのです。注意深く対象を認識しようとしても心を取り逃すからこそ、人間ではない創りもの独自のアイデンティティを立ち上げて終幕となる良さがあるのだと僕は思います。
 もっと言えば、この終わり方によって、「歌」と「終焉」が人間らしさを考えるポイントになるともいえそうです。「歌」という文化的な行為と、「終焉」という時間の有限性について、妄想を広げつつ、次章で考えていきましょう。

2.4 補足2:物の知覚と合致すること、眼がスクリーンになること

 世界という物質の要請に合致することについては、「眼がそのままスクリーンになる」とドゥルーズが表現しています。それに関する解説を見てみましょう。

運動イメージとはつまるところ眼-カメラのシステムであり、それは主体/対象の距離とそこにはたらく張力によって駆動する。そして観客もこのシステムの一部をなしており、カメラを通した、カメラ的な眼をもつ人物への同一化によって感覚-運動的なイメージの連鎖に参加する。
 眼は眼であり、カメラはカメラである。眼がカメラであるとすればそれは比喩的な意味においてでしかないだろう。つまりそれはある種の「もののたとえ」、フィギュールなのだ。カメラは何も「見る」ことはない。(中略)眼がスクリーンであるためには、このように複雑な同一化や条件づけの操作は必要ではない。なぜなら、眼ははじめから文字どおりの意味でスクリーンであるからだ。眼は物のなかにあるのであり、そこに主体/対象を隔てる距離は存在しない。知覚は拡散し、情動は宙づりにされる。スクリーンがただただ光を受け止めるものであるのとまったくおなじく、眼はただただ光を受け止めるものである。

福尾匠『眼がスクリーンになるとき』(フィルムアート社、2019年1月)144〜145頁

 ここでの「眼が物のなかにある」という表現は、物があるそのままのあり方を、私たちの眼は光を受け取りスクリーンに映すように見ているということです。引用箇所にはありませんが、人間である私たちは、受け取った感覚を自身の興味によって「減算」しているため、そのまま受け取っていても知覚することはないとドゥルーズは言っています。
 例えば、赤外線や紫外線のような生き物にとって必要のない波長の光を私たちが受け取っていても見えることがないのは、この「減算」によるものだと述べています。
 ここまでを踏まえると、「時間イメージ」とは、物それぞれをありのままに受け取ることで成り立つイメージなのです。
 意味と結びつかないため、注意深くそのイメージが何を意味するのかを考える必要があるのです。

3. 無情に流れ続ける時間

3.1 暗示される文化的で騒々しい過去

 この歌詞がなぜこうも妄想をかき立てるのかというと、時間的な広がりというか奥行きがあるからだと考えています。MVの最初から砂時計が出てくることから、この作品において時間は重要なポイントであると言えます。

続く一人芝居(モノドラマ)
まるで他人事のように

刻まれた笑み 哀しく
(中略)
なにも感じない
みんなそう創られたから

動画概要欄より

 歌詞には、この人形のような人物と同じように創られた人物がいることが明らかにされています。しかし、この人物同様に歌姫のように創られたのかは分かりません。それでも、彼女たちは「なにも感じない」ように心を消去した状態で作られていることが分かります。さらに、人々を喜ばせるように、まるで刻みこむように「笑み」をつねに浮かべている顔で作られているのです。今となっては「哀しく」「虚しい」笑顔なのですが、それでも人間に対して笑顔で歌を歌い、心の癒しや娯楽として機能していたのでしょう。
 このような登場人物の創られた経緯や目的を考えると、過去には非常に文化的な営みが展開されていたと想像できます。とても楽しそうに生きる人間たちの姿までも見えてくるようです。しかも、iPodやウォークマンのような単なる音声の再生機器ではなく、自立して音楽を歌う存在を創りだしていることから、高度な技術をもった集団であったと想定できます。
 文化的なものを楽しむのは人間の特徴であると言えますし、歌はその最たるものです。歌声を聴きながら文化的なもの享受しているというリアルを再認識することも尊い行為ですが、しかし描かれているこの世界では、そうした尊いものも失われているのです。そのような今の状況を深ぼってみましょう。

3.2 ただ流れ続ける現在

 MVを見ると、ドームのような形をした劇場に人形のような人物がいると分かります。

1:31

 しかし、彼女は「一人芝居」のように孤独に歌い続けています。2.3で触れた「時間イメージ」の説明のところでも述べましたが、悠久に続く時間が彼女の世界に流れていることが分かります。

まわりまわる世界
いつまで続く
軋むこの身体
遠くない終焉(おわり)の音色

動画概要欄より

 「いつまで続く」か分からない「まわりまわる世界」の中で、彼女は「一人芝居」を演じるように歌い続けています。しかし、彼女の身体に生じるハプニング以外に何も起こらない世界なのです。そのため、ただ時間が流れていくことで、より孤独感が際立ち、先に見た文化も退廃しているような虚無な空間となっています。
 こうした空虚な時間の流れは、歌や曲を決める楽譜に記された時間の流れとは対照的だといえます。楽譜には歌の速度が書かれており、拍子と音楽記号に従うことで歌や曲が現動化します。しかし、そのような意味の充実した歌の時間すら、聞き手を失うことで空虚な時間として流れていくのだと考えました。

2:24

 さらに、MVでも終わりに向かう彼女の前に砂時計が出てきます。まるで砂が落ち切ろうとすることを示すように、透明な砂時計の上部に砂は少なく、ひっくり返す直前のように斜めになっています。歌詞だけでなく、MVでも時間は重要なものとして表現されています。

3.3 音楽は終わり、物に還る

 これまで時間に注目してきましたが、あくまでも歌詞に則って考えてきました。ここからは歌詞に描かれた世界の後の世界を、音やMVの情報から想像してみます。
 すでにかなり廃れつつある世界であり、人形のような人物がいなくなった後には建造物のみが残るような状況です。

2:11

 MVからも分かる通り、文化的な建造物が崩壊し、歌声も聞こえません。この曲自体もオルゴールのような音を最後に哀しく奏でて終了します。
 ここから僕は、聴き手を失った音楽について想像していました。インターネット上でYouTubeにアクセスしてこの曲を聴いていますし、少し前まではiPodなどで音楽を聴いていました。電力の代わりに人力でも音を奏でるオルゴールで音楽を聴くこともできます。しかし、再生しようとする者がいなければ、それらの機器も音楽すらも意味をなさないでしょう。
 すでに、人形のような人物が一人で歌い続けているだけでも音楽の存在意義はかなり薄れていたと言えます。しかし、彼女が歌うことを自身の存在の拠り所にしていたため、まだ文化的な産物として存在していたのです。そうした歌い手と聞き手を欠いた音楽は、流れることをやめ、物と化していきます。音楽自体が、人を失うことで物に還っていく世界を想像しました。

 普通ならここで「虚無エンドって無常感あるし、しんみりするけどエモさたっぷりで良いよね」って言って終わるところなんですけど、まだ終わりません。最初にオルゴールの音が流れ、砂時計が出てくるところに注目したくなったのです。
 オルゴールもこの曲自体も、聴き手が再生することで音楽として形を成して流れ出します。さらに、砂時計もゆっくりと逆さになることで、時間が再び流れることを示しています。
 視聴者は考えることなく再生して曲を聴いているわけですが、この行為は音楽に時間を再び与え、歌声に再び力を戻す行為だと思うのです。音楽が流れ始めることで、僕たちは少なからず文化的な営みの中に、自らの時間をさしはさんでいます。この曲の世界観でいえば、人形のような人物である彼女に歌わせる行為と変わりありません。違うところと言えば、心をもつ可能性のあるデバイスを通しているかどうかという点ですが、AIの進化もどの程度まで進むのか分かりませんし、ゆくゆくは同じような世界観に行き着くのでしょう。
 つまり、何を言いたいのかというと、僕たちが何気なく聴く歌声自体に「まだうたっていたい」と思っている誰かの人格が備わっているということです。歌声を機器で再生しても何も語りかけてはきませんし、毎回同じように寸分違わず再生されます。そこに人格を見出す方が無理な話ではあると思いますが、ただ歌声を吹き込んだ誰かのあり方に思いを馳せることはできそうです。僕たちが物に還り、全ての音楽が止まない限りは。

終わりに

 ここまで読んでくださっている方、本当にありがとうございます。
 最初にこの曲を聴いたとき、「音楽というより映画じゃん」と思ったことと、歌声を担当された個人Vtuberで活動する鈍色聴(にびいろ ゆるし)さんが歌詞まで書いていると知り、このように書き殴るに至りました。
 視点や視覚、聴覚と歌声、さらに思考や心といった音楽的要素と映画的要素の絡み合いを言葉にしたい、この曲の良さは数行では表せない、という気持ちから筆を気持ち悪いくらい走らせてしまいました。
 オタクって考えたくなるようなものに触れて、考えたことを言語化することが好きな生き物だと思っています。言語化する内容も、細分化の程度や気持ちの入り具合で違うと思いますが、頭をよぎった何かしらを発さないで自分の中に溜めておくことはオタクの精神衛生上良くないのでしょう。
 もしこの記事を読んで、「ここはどうなの?」という疑問や、「いや私はこう思いましたけど、こうは考えられませんか?」という反論や指摘をコメントに書いてくれると嬉しいです。
 正しさと無縁の妄想、妄言にお付き合いくださいましてありがとうございました。

今後の課題

 妄想なのに今後の課題なんて書くのは絶対違うと思うんですよ。でも書きたくなっちゃった。だってまだまだ切り込んで考えられる余地がありますからね。
 今回、歌い手である鈍色聴さんというVtuberが歌詞を作り出し、世に出しているにもかかわらず、自らのキャラクターと無縁のキャラクターで世界観を構築していることには触れませんでした。作品と活動者のキャラクターと独立性の問題ですね。これは、VocaDuoという、複数のクリエイターやアーティストが一つの作品を作り上げるという非常に偶発的な試みにも繋がっていく問題です。
 さらに、歌詞に描かれた世界観でいえば、女性が歌い、しかもそれ以外には誰もいないという状況をジェンダー的に考えることもできたのですが、それにも触れませんでした。歌声を繰り返し歌うだけの機械としての女性像が、ジェンダー的な観点から考えるに値するかということよりも、単純に僕の手にはあまりました。
 最後に、結局「人形のような人物」と書き続け、機械とも人形とも人間とも確定させませんでした。「アンドロイドってことで良くね?」と安易な方に思考が流れましたが、そうすると心の問題に触れにくい上、「創られた」という漢字の表記の問題にぶち当たりました。もしかしたら、人間なんだけど神様が歌しか歌えないように生み出した、という考察もできますからね。
 謎は謎のまま、一人でわからないことはわからないことのまま置いておくことで、この曲をまた聴こうと思えるので、今回はそのままにしておきました。

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