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想像力の射程

 この記事では、事務員として働きながら考えたことを日常生活の場面につながるように整理したものを書きました。
 「想像力」をキーワードに、日々のタスクをこなすことから「生きにくさ」を生み出すものまで思考を展開しました。
 私の記事では、専門用語はできる限り排除します。論理の厳密性よりも、生きる「ヒント」になるように有効さに重きを置いています。
 よければ最後までご覧ください。

想像の広さ

 今回の記事のキーワードである「想像力」が何を指すのかを読者の皆さんと共有したいと思います。
 そのために、2つの例を考えていきましょう。

 あなたは中学生で、校則によって制服を着て登校しなければなりません。また、化粧は認められていません。家を出発するまでに十分余裕のある時間に目が覚めたとしましょう。
 そのとき、あなたは登校するまでに何をするでしょうか。あるいは、すでに中学校を卒業したのなら、実際にあなたは何をしていたのでしょうか。

 筆者はずぼらな男子中学生でしたので、まず歯を磨き、顔を洗顔で洗い、寝癖を直すために洗面所で頭を一度ずぶ濡れにしていました。朝ごはんは前日のおかずの残りと白米であることが多く、白米がなければ食パン1枚をそのまま食べていました。
 その日の時間割表を確認して教科書をカバンに詰めこみ、ナップサックに部活のジャージを無造作に押しこむ。体調が悪ければ吸入薬を吸っていたこともありました。

 この例を考えてもらう目的は、起きてからのタスクで何をするのかを想像し、その内容を言語化することにあります。
 起床してからではなく、夕方や夜に学校や仕事から帰ってきてから、もしくはその日の仕事や課題を終えてからでも同様の想像はできます。しかし、夕方以降の方が日によって選択肢が多岐にわたるため、今回は取り上げませんでした。
 今回はあえて言語化することに焦点を当てました。普段私たちは、朝起きてからすることをあえて口に出したり、もしくは頭の中でやることを明確に言葉で切り分けて考えたりはしていないと思います。少なくとも筆者はそうではありません。「いつも通りのこと」を「一連の流れ」でこなしていく。こういう感覚です。
 この時に、私たちは、少なくとも筆者である私は、意識的に考えずとも、次の行動を予測して動いています。ぼんやりと、しかし確実に何かをしようと想定して動いているわけです。

 もう一つ別の例を考えてみましょう。

 ご自身の母国にあなたがいるとします。あなたは母国語や公用語で誰かと挨拶を交わし、国内のニュースを見ているとします。
 そのとき、あなたは自分の母国がある(母国にいるではなく)という感覚を持っているでしょうか。

 おそらく、「自分はこの国で生活している」と意識的に考えることも滅多になく、さらには「自分がいるこの国は本当に存在するのか?」と懐疑的に問うこともないと思います。よほどの事情がない限り。
 しかし、筆者は日本人ですので日本で考えますが、私は地図を除いて日本の輪郭を見たことはありませんし、生活していて「ここが日本」という感覚を持つこともありません。にもかかわらず、今自分のいる国には北海道から沖縄まで日本人がいて、方言の程度はあるにせよ、同じ日本語を話すものたちが日本という国のあちこちにいると信じています。

 繰り返すようですが、私は日本というものを見たことがありません。日本に住んでいるのに何を言っているのかと思う読者もいるでしょうが、外に出て山道を歩いても地面に「日本」とは書かれていませんし、海辺の砂浜に「日本」と落書きでもされていない限り、日本らしいものを見ることはできません。
 つまり、私たち日本人の多くは(日本を別の国に変えたとしても)、日本というものがあり、日本国内では北海道に行っても沖縄に行っても日本語が通じると信じています。しかし、その実体としての「日本」のようなものはないのです。
 まるで、想像の産物が現実にあるかのように信じているわけです。

 さて、これらの例から言えることは次の3つです。
① 想像とは、物語のような虚構のものを思い浮かべるだけではない。
② 私たちは、言語化しないままに次に自分がすべきことを想定している。
③ 現実にあると思っているものの中には、私たちが想像したものを共有しているために実行力を持っているものがある。

 物語については、想像と聞くとすぐに思い浮かぶものだったため、あえて触れませんでした。
 この3つの想像力を私たちは日常生活の中で使い分けているわけです。しかも、使い分けようと思っているわけではなく、自然にそのように考えてしまうというあり方で、使い分けでいるのです。
 ②の想像力は、夜にお風呂に入りたくないと思う時に顕著に表れています。タスクという言葉で考えることもできますね。「そういえばやらなきゃいけないことがある」というような感覚。想像力によって、自分がならなきゃいけないことを考えしまってうんざりすることもあるでしょう。
 ③の想像力は、世間一般の共通認識から自分が思い込んでしまっている偏見や固定観念などを言語化しようとすると意識化されるものです。
 ①の想像力は、イメージするものの解像度の的確さや情報量、現実味の有無などに関わっていますし、人によってどこまで想像できるかといった程度の違いがあります。練習次第で鍛えることのできる想像力であり、かなり意識的に行う想像力です。

 私は「生きにくさ」には、②と③の想像力が関わっていると思っています。これらの想像力をもとに、前回の記事「鈍感さ 再考」の中で触れた、他人とのコミュニケーションをどこで発生させるか、ということを考えていました。他者からコミュニケーションを取るように要求されているように思い込んでしまうのは、まさに③の偏った認知が②に働きかけてタスクや行動の選択肢として割り込んでしまうためです。
 もしお時間のある人は、前回の希望もご覧ください。

 では、生きにくさを解消することまでは至らなくとも、生きにくさと向き合うための方法に、これらの想像力はどのように寄与するのでしょうか。あるいは、障害となって立ちはだかるのでしょうか。

想像力は物事の見え方を左右する

 想像力は、自分がこれから起こす行動がどの程度面倒くさいのか、自分が直面している問題はどう切り込んでいくべきなのかを考える、思考力に関わっています。
 思考力と少し違うのは、考える過程で思い浮かべるものが合理的ではない可能性が含まれていることです。あくまで、今は合理的に人間が思考していると仮定します。

 例えば、夕食を食べた後にお風呂に入ろうとあなたが思っているとしましょう。
 満腹感と少しずつ体にのしかかってくる眠気、お風呂を上がった後に待っている短くない時間のタオルドライやドライヤー。汗をかかない1日であれば、衛生的不快感も少なく、「明日の朝どうせ身なりを整えるのだから今入らなくてもいいか」という考えが頭を支配してくる。こういった経験がある人もいるでしょう。
 お風呂に入る、シャワーに浴びることをキャンセルして心地よい眠気と満腹感に任せて寝てしまおう。最高で罪悪感の残る就寝。そういう日もあるはずです。

 実を言えば、筆者も同様の感覚に苛まれることは日常茶飯事です。それでも体を起こして浴室に足が向くようにしています。
 また、筆者は事務員であることもあって、着手したら長く時間がかかりそうな単純作業がタスクとして舞い込むことも日々よくあることです。

 「なんとなく面倒くさい」という感情や身体的な感覚によって、私たちは本来そこまで難しくないものに対して、ハードルを上げてしまいがちです。合理的に考えれば、ベッドに行かずにそのまま浴室へ向かうだけ、あとはそのままの流れでシャワーを浴びたらタスクが完了する。それでも、感覚と結びついた想像力はこの行動のハードルを高くしてしまう。
 合理的ではない非合理的な判断に流れやすくなってしまうのです。

 このような時に、筆者は一旦タスクのゴールをずらします。自分の”今なすべきゴール“は、ベッドから一旦降りること、ファイルを開いて一つだけ作業を終わらせることにしてしまうのです。タスクの完了までの過程を想像してしまうと、膨大な時間や数多くの作業の工数が今目の前にどっさりと用意されているように感じてしまうからです。直近の未来に待っている状態よりも、とりあえず小さなゴールにのみ集中するのです。
 また、ゴールを簡単な、そしてかなり手前のものにずらすことで、自分を動かしやすくします。一旦動いてしまえば、イヤイヤながらも完了しなければ済まない性格だからです。性格を差し引いても、一度手や体を動かすことで、想像力よりもその場のための思考力や行動力が優位になります。その結果、達成すべきゴールは最初小さなものだったにもかかわらず、気がつくと最後まで行動できていることが多いのです。
 実は、最初のとっかかりがタスクにおいては一番ハードルが高いのです。ゴールは、自分が転がっていくようにして行きつく、作業の流れの最終地点でしかないのです。

 タスク内容によっては、中断せざるを得なかったり、あるいは毎日同じ作業に着手しなければならなかったりするものもあります。そうなると、毎回タスクへ向かうためのスタート地点がやってくることになります。
 人によっては、途中からの方がハードルが高くなる人もいるでしょう。ゴールが近くにあるために、今なすべきゴールが本来のゴールと近くなるためです。これも想像力が働きすぎるためであるかもしれません。
 深く考えずになんとなく始めてみる、そのように自身の想像に対して鈍感で対応することも必要になってくるわけです。

 合理的に考えているようで、自身の想像力の枠に囚われてしまう。ここから逃れるためには、自分の思考や合理性が、何を基準にしているのかを問い直す必要があります。

 多くの場合、自分がこれまでに体験したことや、人から聞いた知識によって正しいか否か、その状況に適しているかどうかを判断しています。日常生活の中であれば、論理立てて物事を見て考えるというよりも、直観的な判断に身を委ねている場合が多いはずです。その場合に特に対象や物事を見る目には、想像力が関わってしまうのです。

 最近職場であった例では、セブンイレブンで販売している「のむ抹茶オレ黒みつゼリー」が新発売ということで売られており、私は何気なくお試しのつもりで買っていきました。すると、職場の人からは「それ美味しいの?」と怪訝そうな顔をされました。
 私は新しいものを見ても美味しいかどうかは食べてみるまではわからないという考え方なので、新発売の商品をよく買います。しかし、職場の人たちは「なんとなくおいしくなさそう」だというのです。(飲んだら美味しかったです)
 この「なんとなく」という感覚に大きく影響を与えているのが、想像力です。抹茶オレに黒蜜を入れて、しかもゼリーにする。その組み合わせから甘いものに甘いものを入れて、さらに食感も複雑であろうと想像したために、食指が伸びないのだそうです。

 これは食べ物ですが、何か新しいことを始めようと考えていたり、慣れないことに挑戦しなければならなかったりする場面でも、それを行う自分が想像できない、あるいは反対に失敗を想像しすぎてしまうことで身動きが取れなくなることは、よくあることです。
 その時には、自分が物事をどう見ているか、さらにそれを見た時に自分が何を想像し、どんな印象をもったのかを検証する。それが自分の想像力によって自分を縛りつけないための方法であり、少しでも物事に鈍感になって生きることだと私は考えます。

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』

 今回の記事を書くにあたって私が考えるヒントにしたのは、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』です。
 アンダーソンは、国民国家を生きる人々である国民は、いかにしてナショナリズムをもつのかという問いについて考えました。その問いを巡る議論について考えた本こそ、見出しの『想像の共同体』なのです。
 彼はその本の中で、興味深いことを述べています。

国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である——そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの〔最高の意思決定主体〕として想像される。

白石隆・白石さや訳、ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』、書籍工房早山、2016年12月、24頁

 現在の日本やアメリカ、中国のような国民国家というあり方を成り立たせるためには、統治者がいればいいわけではありません。自分たちはこの国の民であると信じている国民がいなければ、国民国家は成り立ちません。しかし、アンダーソンは、その国民とは「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」と考えたのです。国民国家以前は、王様が領土を決め、その中にいるものが王国の住人でした。しかし、彼らは自分がどの国に所属しているのかは、あくまでもその土地を管理するものによって決めていました。自分がどの国の人間か、ということが常に左右される立場にいたのです。
 時代を現代に戻して考えると、日本人である読者であれば特に、自分が所属する国の国民だと信じていれば、他にも日本語を話す人間と連帯している、どこか自分たちは同じ性質を持っていると考えがちです。
 しかし、自分が所属する国籍や生きる時代によって、思考が限定されています。しかもその限定がどのように思考を偏らせているかを自分だけでは気づきにくいのです。だからこそ、同じ国籍をもち、自分と同じ物事の見方でしか生活していない者以外の声を聞く。それが自分の思考の世界における余白を浮かび上がらせ、思考の外へ出ていく手段となるのです。
 このような想像や信じる力、さらに言葉を通して世界を見ることから逃れられないという事実をベースに思考を立ち上げました。

 次回は、「イレギュラーを壁から余白の気づきへ変える」という記事を書いていきます。
 タスクや想像力といった今回の記事とかかわる内容でありながら、「イレギュラー」を軸に別の思考を立ち上げていきます。

参考文献

・白石隆・白石さや訳、ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』、書籍工房早山、2016年12月
・鷺沢萠『君はこの国を好きか』、新潮文庫、2000年3月

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