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努力は必ず報われる。だから努力は絶対するな。

 古本屋には手あかのつきまくった茶色い文庫本が並んでいる。自分とは異なる人間が手に取り、めくり、汚したそれらの本は私たちにとって大変お安くお求めいただける本たちである。そんな文庫本のように手あかのつきまくった茶色くお安くお求めいただける常套句の一つ「努力は裏切らない」「努力は必ず報われる」について触れる。

 「努力は裏切らない」「報われない努力はある」という論が交わされることがある。この議論について私の持論を結論から言えば「努力は必ず報われる」という立場を採っている。この結論だけ言うと「努力」を礼賛するタイプの人間と思われるかもしれないが、全くの逆の立場である。「努力」なんて単語は日本語から消えてしまえばいいと思う程度に「努力」が嫌いだ。

 そもそも努力って誰が決めるのだろうか。目的に向かって行動していく一人の人間がいたとしよう。目的を達成し成果を挙げられたのであればその行動は「努力」として評価されるだろう。逆に、成果を上げられなかった場合はどうだろうか。その行動は無駄な労力「徒労」として扱われるに違いない。その人物がとってきた行動は結果に合わせて名前を変えるのだ。この理屈でいえば「努力は必ず報われる」のだ。「報われた行動のみが努力を名乗れる」と言ってもいい。良いインディアンは死んだインディアンだけなのだ。そんな後付け上等な理屈に付き合う必要が我々にあるだろうか。

 私はある分野について、友人から「おまえは努力家だよね」といわれたことがある。しかし言われた当人としては別に「努力した」という認識はなかった。確かに練習はした。でもそれは努力というほど大層なものではなかった。自身にそれなりの能力があり、行っていた練習法が正しかっただけだ。反対にどれだけ練習してもうまくならないとある後輩は他の人より練習する姿が見受けられたとしても「努力してない」と評価されていた。「努力」か「徒労」かなんてものは後付けで何とでも言えるのだ。

 努力というものは「努力する」と意気込んでするものではない。成果を前提にして他者からの相対的評価で「それは努力だ」と認められるものなのだ。シュレーディンガーの猫が箱の中で生きているのか死んでいるのか、それと同じような感じで徒労と努力が同居した状態で私たちは行動せざるを得ない。成果が運によってもたらされたとしてもその行動は努力と評価される。そんな糞みたいなロジックで君らの行動は「努力」だ「徒労」だと評価されるのだ。

 もし自身が「努力してる!」と思いながら何かに取り組んでいるのなら考えを改めたほうが良い。あなたは目的に向かって手段を実行しているに過ぎないのだ。そして、「努力」なんて古臭いラベルを貼らなくてもその行為は大変素晴らしいことなのだ。成果を上げるか否かは関係がない。目的に向かって手段を実行し人類は失敗しながらも発展してきた。目的に向かって何かを取り組むあなたも人類の発展に寄与しているのだ。誇っていい。いや、誇ってくれ。

 私は「努力」という単語があなたの辞書から消えてくれることを、消えるまではいかなくとも大して有用性のない単語くらいに成り下がってくれることを切に願って止まない。

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