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短い感想文「信長研究の最前線 ここまでわかった 『革新者』 の実像」日本史史料研究会
私は織田信長のことは好きです。押しかと云われると、押しでもファンでもありません。好きか嫌いかと言えば好きの方位です。今回紹介する「信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像 (朝日文庫) 」と戦国時代の深い知識のある、信頼できる戦国史情報の発信者の、まとめ管理人 さんの動画をみたら、一変に信長のことが嫌いになるかも。トラウマになるかも。
信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像 (朝日文庫) Kindle版
上京焼き討ちの事 【『織田信長ってどういう人なの?』番外】まとめ管理人
織田家家臣団のブラックぶり
信長と云えば本能寺、本能寺と云えば明智光秀。ということで謀反した家臣についての論考が
「信長を見限った者たちは、なにをを考えていたのか」天野忠幸
「明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか」柴裕之
「信長家臣団における『勝組』『負け組』とは」片山正彦
と3本あり、織田家中でも秀吉についての論考もあります。
「信長は、秀吉はどのように重用したのか」小川雄
切り捨てられたり、見限られた家臣が、他の戦国大名に比べても断トツに多いことに注目されています。荒木村重、佐久間信盛そしてボンマーマンとして人気のある松永久秀。久秀は従来は下剋上の落とし子のように云われていましたが、最近では前に仕えていた三好長慶にも信長にも忠実な家臣でした。信長が久秀が持っていた大和の支配権を、元亀3年に筒井順慶に与えたことにより謀反しました。悪いのは信長じゃん、久秀を配慮しなかったのか。信長的には新しい領土をものにできればいい位にしか思ってなかったのか。家来については配慮がないとか、詰が甘いです。
絶妙のタイミングで起こった本能寺の変
信長の家臣団を今の民間企業に例えると、出世して役員になると、領国がもらえるが、理不尽に解雇されたり、謀反を疑われたら本人のみならず、家族も部下も撫で切りにされる。今の日本では殺されることは無いのですが、先輩や上司が出世したら、社長の気分次第で解雇される会社はモチベーションダダ下がりです。役員になれる程の優秀な人材は直ぐ湧いて出るはずは無くて、業界1位天下は取れないでしょう。
中国へ四国へと大躍進中の信長ですが、勝ち組の家臣でも首の辺りが薄ら寒かったり、そんな政権は本能寺がなくとも数年後には内部崩壊したのでは、と読んでいて思いました。本能寺で信長親子が斃れた時は、家臣団が崩壊する前でしたので、豊臣政権に引き継がれたこともあったでしょう。日本国にとって、優秀な家臣団を摺り潰される前に、次の政権に移り徳川政権でも生き延びた武将がいたのは、絶妙なタイミングだった気がしてなりません。
これを読んだ信長ファンの方の、お気を悪くしたら御免なさい。
感想をもう一つ、この時代の勝者って、もしたしたら正親町天皇ではないでしょうか。権威を失わず、生き延びで子孫も残せたということでは。戦国時代は皇族も公家も特別枠ではないんです。
松平中心史観もあるのか
日本の歴史研究は、戦前から続く皇国史観と戦後の左翼史観に、振り回されてきました。歴史研究書を読む時は二つの史観の影響下にあるのか仔細に読まないといけません。近頃の研究者は史料を精査しているので、新説で手の平返しをされるときも多々あります。リアルに近づいているので、講談や司馬遼太郎の小説より、皇国史観・左翼史観よりも。わくわくしてこちらの方が好きです。歴史研究者を応援しています。
「織田・徳川同盟は強固だったのか」平野明夫
に、桶狭間後1年経って、松平は今川を見限ったという通説があります。同時代史料を研究した最近の説によると、直後に今川氏と敵対してるのだ。神君徳川家康は、義元の嫡子氏真が、敵討ち(やらないと戦国時代は舐められる)をせず、見限るまで時間がかかったというのが従来の説です。それは家康を神格化するものでした。江戸時代から営々と続いた松平徳川中心史観に、知らずと影響されいるんですね、
最後にお口直しに動画を紹介します。
今こそ考える!織田信長はなぜ強かった? 大田牛一(うしいち)