カピタンという夢 ~マタドール、セルヒオ・ラモス~ 上編
幕
「いつかイエロのような存在になれたらいいね。このクラブでカピタンになりたいんだ」
怖いものなど何もない、アンダルシアの若者が言ってのけてから16年の月日が流れた。偉大なるカピタン、セルヒオ・ラモスが遂にレアルマドリーを退団する時がやってきた。ピッチ上でのパフォーマンスのみならず、クラブ内外に大きな発言力を持った彼は、随分前から一選手の枠を超えた存在となっていた。本当は「闘牛士」になりたかったという彼の偉大なる功績と、迸る情熱の中に見たものを振り返ってみたい。
銀河系の選手たちと、ロナウジーニョ
時は2005年。ペレス会長はまだ10代のDFに高額の移籍金を支払うのを嫌がったが、当時フロントにいたイタリアの世界的名将アリゴ・サッキに「10年は活躍する選手だから」と説得され獲得したという話もあった。そんな経緯を知ってか知らずか、19歳ながらすでにスペイン代表デビューも果たしていたラモスは自信満々でレアルマドリーの門を叩いた。終末に向かっていたとはいえ銀河系のロッカールームには、ロナウド、ベッカム、ロベルトカルロスといったスーパースター達、カピタンとして大きな影響を受けたというラウールがいた。その中には世界最高の司令塔にして、後に監督と選手の間柄として大きな信頼関係を築くジダンもいた。(入団1年目ながら彼の頭をなでる姿には恐れいった)
混迷の時期にあったマドリーにおいて極端に層が薄かったCBで1年目はプレーすることになった。最初から身体能力、足元のテクニック、アグレッシブさ、ふてぶてしいメンタリティーと、どれをとっても只者ではない能力を見せつけていた。ひらりとかわす闘牛士というよりは、もはや闘牛といったほうが正しいようなスタイルで、相手FWだけではなく審判にも果敢に突っ込んでいった。とにかく目立ちたいというのは当時から今も変わっていない。
そんなラモスに強烈なレッスンを施したのが、当時世界最高の選手であったバルセロナのロナウジーニョだった。ベルナベウでのクラシコで2度も1対1で完璧なまでにぶち抜かれ、ゴールを許すことになったのだ。当時のマドリーは守備組織がほぼ存在せず、50メートル近くをCBにカバーさせていたので、情状酌量の余地はあるのだが、それでも鼻っ柱の強いラモスのプライドがズタズタに裂かれたことは想像に難くない。マラドーナ以来と言われる、バルセロナの選手へのベルナベウからのパシージョという屈辱はセルヒオ・ラモスという選手が大きく飛躍していくきっかけの一つとなったのは間違いないだろう。
ラテラルとして
翌シーズンからはイタリアから「カテナチオの権化」ファビオ・カペッロがやってきてからはカンナバーロの加入もあり、右のラテラルにほぼ固定されることになった。右サイドハーフを本来はFWのラウールが務めており、中に入っていくことが多かったため右のレーンほぼ全域を彼がカバーしていた。このころからビッグゲームでの強さを発揮しており、ベルナベウクラシコではラウールへの見事なクロスでアシスト、カンプノウクラシコではヘディングシュートを決めていた。衰えがハッキリしてきたサルガドに代わって20歳にして絶対的な主力となった。
当時の記者に「チームはあまりにも守備的ではないか?」と問われたカペッロは「うちはセルヒオラモスをCBに置くこともある。彼はほとんどサイドアタッカーのようなプレーヤーだ。こんなのイタリアではありえない。これのどこが守備的だというのか。」というほど、当時から攻撃にラモスはのめりこんでいた。
そのカペッロのシーズン、そしてセビージャでの少年時代のあだ名「シュスター」の基になったシュスター監督の下での07-08シーズンとリーガ2連覇に貢献し主力としての自覚も芽生えていたのだろう。徐々に発言も大きくなっていく。
08-09シーズンには「右サイド全域を1人でカバーするのをずっと続けるのはいくらなんでも辛すぎる。監督は考えるべきだ」とシュスター監督の戦術に異議を唱えるような発言をし、物議をかもした。
スペイン代表でも19歳でドイツワールドカップのレギュラーとして出場し、亡き親友プエルタの背番号15を背負いながら、08EURO、10ワールドカップ制覇という黄金時代を中心選手としてプレーした。(ラウールのマタドールパフォーマンスを代表で継承・披露したのもこのころだったと思われる)
09-10。フロレンティーノ・ペレスが再び会長に舞い戻り、超大型補強を敢行した際には23歳ながら古株のほうになっていった。ラウールはベンチとなったため、カシージャスがゲームキャプテンとなりその後ろの2番目からピッチにでてくるのが新たな‘定位置‘となっていった。
スペシャルワンとの出会い
当時のチームはというと、第二次銀河系と呼ばれた割にはCLラウンド16でまたしてもリヨンに屈し、リーガでも黄金期を謳歌するバルセロナの後塵を拝していた。そこでペレスは前年にインテルで三冠を達成していた優勝請負人、ジョゼ・モウリーニョにチームを託すことになる。
着実にチームでの序列をあげていったラモスではあったが、スピードとパワーで右サイドで存在感を示す反面、自身の攻めあがった裏を頻繁に突かれたり、マークを外してしまうなどそのポジションでまだ世界最高峰とは言えないような状況だった。
モウリーニョとともに、若手選手何名かがマドリーに加入した。このころから、年齢が近い選手が多かったこともありラモスは新加入選手の面倒をよく見ていたように記憶している。特にエジルとは非常に仲がよく、夜遊びをメディアにすっぱぬかれたりもしていた。若手の兄貴分としてのカピタンの資質を徐々に発揮していたといえるだろう。
モウリーニョはクラシコで0-5で大敗した後、ペップ・バルサへの敵愾心を剝き出しにし、審判にもプレッシャーをかけ、合わないクラブ役員は追い出すなど勝利のためには文字通りどんな手も使っていた。当然、その矛先は選手にも向きチーム内は一触即発だった。
11-12シーズンは記録的な勝ち点とゴール数でリーガを制覇したものの、CL準決勝バイエルン戦ではPK戦で敗退。クリスティアーノ・ロナウド、カカに続きラモスも大きくPKを蹴り上げてしまい、悲嘆にくれることになった。
翌12-13。ついにカシージャスとモウリーニョの対立が表面化する。カシージャス側についたラモスは「(トッププロでなかった)あんたにマークの仕方がわかるのか」発言や、デポルティーボ戦で涙を流すほどモウリーニョに叱責され前半で交代を命じられたたエジルのユニフォームを下に着て後半を戦うなど公然と反旗を翻していた。しかしプレー面ではモウリーニョによって大きな良い影響もあった。カルヴァーリョの衰えで層が手薄だったこともあり、本格的にCBにコンバートされた。元々の前への対人ディフェンスの強さと、スピード、両足のフィードと良さが目立つようになり世界屈指の選手へと駆け上がっていく。
このことでサイドの一選手から、チーム全体にコーチングができる存在になったこと、カシージャスがベンチなので、ほとんどの試合で腕章をまくことになったことで更に影響力は拡大していくことになる。
プライドの高い本人は認めようとしないが、今につながる地位を得たのはモウリーニョの存在が大きく影響したであろう。
「それが(ポジションのコンバート)が僕のキャリアに大きな影響を与えたとは思えない。モウリーニョはキャリアの中での1人の監督にすぎない。彼にはとても感謝しているが、僕の人生を変えた存在ではない」
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