江戸の子育てネットワーク - 【識字率世界一:その3】
江戸における教育制度を研究する上で、その当時の時代背景を考察することは重要だと思うので、少し範囲を広げて掘り下げてみたいと思います。
高い乳幼児の死亡率
子沢山で知られる11代将軍の徳川家斉は、正室と側女40人との間に55人の子をもうけました。ですが、その子ども達の内、40歳以上まで生きたのはわずかに7人だったそうです。
さらに、亡くなった子ども達のうち15歳を超えたのは半分に満たず、38人が2歳未満で死亡しており、将軍というステータスで受けることができた医療レベルでも乳幼児の7割を救うことはできなかったといいます。
また、1771年から1870年までの100年間を対象としたある調査によると、平均死亡年齢は男性が28.7歳、女性が28.6歳で、死亡者の7割以上が5歳未満の乳幼児だったそうです。
この異常に高い死亡率の主な原因は、痘瘡(とうそう)、麻疹(はしか)、痢病(赤痢など)、腸チフスなどの伝染病や小児病だったといわれています。
仮親制度という子育てのネットワーク
上述の数値が示すように当時の社会では、子どもは成人するまでに幾つもの生死の危機を乗り越える必要がありました。だからこそ節目節目の通過儀礼が大切にされ、子どもの成長を親類や地域の人々で見守る「子育てネットワーク」の仕組みが発達していきました。
様々な種類の仕組みが生まれたのですが、その代表格が『仮親(擬制親族)』です。仮親とは、一時的な親の代わりになる人、という意味ではなく、出産前からその子どもの生涯にわたって擬制的な親子関係を結ぶことを意味しました。
仮親の例を幾つか挙げると、例えば出産には産婆(取り上げ婆)とへその緒を切る取り上げ親が立ち会い、無事に出産が済むと産婆も取り上げ親も赤子の仮親となり、生涯の付き合いがスタートします。
地方によっては7歳までは取り上げ親が育て、7歳を過ぎたら両親に返すという風習もあったくらいです。生後二日間は乳児を持つ女性に頼んで乳を飲ませてもらうことも多く、この女性を『乳つけ親』と呼びました。
また、赤子は生後7日間を生き延びることが第一の難関だったので、7日目に名付けを行う地方もありました。『名付け親』は取り上げ親や親類縁者、また村内の子宝者・有力者に頼むのが一般的で、名付け親の名前から一字または全部をもらって付けることが多く、以後、名付け親とは親子のような間柄となりました。
この他、赤子が4、5歳になるまで子守を雇うことがありましたが、子守も『守親』と呼ばれ、赤子と義理の親子関係を結びました。中には実の親子以上に親しくなり、守親は人生のあらゆる場面で相談に応じる存在だったそうです。
少し珍しい話では、6、7歳の小さい子どもが子守奉公に出される場合も多かったそうで、小さい子どもが赤子を背負って引きずっている様子がよく見られたとのこと。
現在では一種の後見役としての仮親制度が残っている地域もありますが、かつては日本全国に存在し、日本人の子育てにおいて重要な役割を果たしていました。子どもが成長する過程で多くの仮親を持ち、その関係が生涯続いたことは日本独自の教育的伝統だったようです。
地域の教育ネットワーク
地域の教育ネットワークとして、『子供組』『若者組』『娘組』といった一定年齢に達すると一定期間所属する性質の集団が日本各地に存在していました。
これらはいずれも同世代の青少年が集団生活や共同作業を通して教育・訓練される社会教育組織でした。
子供組は普段は遊び仲間と変わりませんが、年中行事や祭礼の際には特定の役割を果たしました。最年長の指揮によって行動し、厳しい上下関係や一定の掟の中で指導・教育され、掟を破れば仲間外しなどの制裁もあったようです。
若者組は、ばらつきはありますが概ね15歳以上の成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされた上で杯を交わし、正式な加入が認められたそうです。
新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、先輩からの徹底したしつけや教育を受けることで子供心を拭い去って自立した大人へと成長していったそうです。
若者組は地域における祭礼・芸能・消防・警備・災害救援・性教育・婚礼関係などに深く関わり、その責任も裁量も大きい組織体でした。一旦若者組に加入すれば内部事情はいっさい口外しない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることはありませんでした。
このように江戸時代の子どもたちは様々な人々との重層的な関係や集団の中で育てられており、大前提として、大勢の人間が深く関わって一人の子どもを育てていくといった共通理念が敷かれていたのでした。
まとめ
今回の調査で、江戸時代の乳幼児の死亡率の高さに驚きました。当時の社会では本当の意味で子どもは『宝』だったようです。
暗い気持ちになってしまいますが、子どもが亡くなってしまった親達にとって他人の家の子どもでも健やかに育つことを願ったのではないでしょうか。
現代では形骸化しているような子どもの節目の祝い事も、その年齢まで生き延びたことを地域のみんなで祝う本当に大切な行事だったのだと知ることができました。
今回の調査は、現代社会の育児問題、例えばワンオペなどでの育児ノイローゼなどに対する一つの解のような気がしますが、出産において母子ともに健康で出産を終えられることがスタンダードな現代社会において地域で子どもを『宝』として育てていくことはハードルが高そうです。
それに正直上述の諸制度を調べて、結びつきが深すぎてちょっと嫌だなと思ってしまいました。恐らくその嫌悪感の根源は、現代社会において地域性に信頼感がないからとも思えます。つまりご近所さんのこと信頼していないとうことです。
一方で、この仮親制度を信頼できる友人にお願いできたらどうでしょうか。現代は結婚しない男女が増えてきていますし、事実私の周りでも結婚していない友達が大半です。
自分が信頼できる友人に対して『仮親契約』を結ぶことができ、時々育児を任せられる、場合によっては一定期間預けるなどのオペレーションを仕組み化できると少し面白そうです。
自分で会社組織などを持った際にはその組織内で実証実験でもやってみたいと思います。
次回からは江戸の幼児教育について深掘りしたいと思います。
今日はこの辺で。