第三回「タコピーの原罪」

注意

この文章中ではなるべくネタバレを回避しますが、止むを得ず解説として本文中の場面を指定する場合がありますので、ご了承ください。また、作品解説ではなく、作品の持つメッセージ性を筆者がどう捉えたかについて語りますので、解説を求められる際はTwitterなどで探すか、ご自身で考えてください。

感想と導入

 「タコピーの原罪」を15話まで読んだ。救われないのは評判通りであり、筆者自身も鬱っぽくなってしまった。ただ救われないこの話が、ここまで人々を惹きつけている理由は何なのだろうか。同時に、ここまで鬱っぽくさせておいて伝えたいメッセージは何なのだろうか。

「友情・努力・正義」

 どんなに辛かった過去も、振り返ってみれば綺麗に見えることはよくある。我々人間は、物理的、心理的、まして時間的なもの全てを問わず、遠くのものを綺麗に、近くのものを汚くみる傾向にあると私は考えている。昔は良かったとよく言い、未来に夢を馳せて、現状を嘆くなんてことは最たる例だ。

 我々はこの「近くは汚く、遠くは綺麗」というロジックを無意識に求めてしまっているのだ。ジャンプが持つ「友情・努力・正義」の三大原則は遠くにあるから許されているのだ。我々の生活とは無縁な、ナメック星や江戸時代の万屋、湘北高校だから美しく見えるのだ。逆に言えば、リアルであればあるほど我々の生活からは近く、汚く見えてくるのだ。「はだしのゲン」の中でも「友情・努力・正義」が描かれないことはないが、世間が考えるジャンプ漫画っぽさはないだろう。「タコピーの原罪」もそうだ。タコピーは努力し正義の名の下に、しずかちゃんと周りの子供たちの友情を修復?しようと尽力するわけだが、全く綺麗には見えない。無惨かつ哀しく見えるのはこの物語が読者から見て心理的に近くにあるからなのだ。我々の生活とリンクしてしまっているのだ。どのような社会であろうと人間関係は複雑で、善と悪の二元的な捉え方は大方できない。みんなが仲良しな社会は存在しないと誰もが思っている。だからこそ、読者は最初タコピーの目線ではなく、しずかちゃん的な目線でタコピーを、悪くはないが空回りしている人間社会を知らない宇宙人、と捉えているのではないか。その時点で僕らはこの物語を身近に、さも自分ごととして汚く捉えているのだろう。

作者がリアルに哀しく見えるように描いている、というところは十分にあるのだが、タコピー側だけから描けば少なくともこんなに救われない話ではなかっただろう。もしくは、全てを描かなければよかったのだ。トムとジェリーでご存知の通り、漫画のキャラクターというのは致命傷を負っても次の話までには復活するのだ。そこで復活しないのは、作品がシリアスでキャラクターが生きていると思わせたいからでしかない。

 この作品は悲哀であるから求められているのだ。「近くは汚く、遠くは綺麗」のロジックで言えばだ。もう一つの理由を挙げるとすれば間違いなく話題作りだ。良くも悪くも過激なものほどよく目立つ。ただ、目立っただけではダメなのだ。目立った上で我々を引き離さない何かがあるはずだ。

僕らの原罪

 我々は救いを求めている。作中にも、この世界にも。僕たちは常に現状への限界や空虚な感覚を感じていて、それを打破する「救い」を求めてしまっている。時にそれは自由主義であり、社会主義であり、UFOであり、陰謀論だ。この社会を大きく変えてしまう変革を僕らはどこかで望んでいるのだ。時に作中では、いじめに遭い、親は帰って来ない。そういうところから逃げ出したい。昔のような幸せに戻りたいと願う。そこへタコピーがやってくる。タコピーは紛れもなく、あの中の社会では大きな変革だ。ただし、この変革は成功しない。少なくとも現段階では。自由主義革命だけが何とか成功したが、それ以外は世界をまるっきり変えるだけの力を持たなかった。UFOは来なかったし、陰謀論は一つの物語の域を超えない。まして自由主義革命ですら、我々を真に自由にしたり、幸福に導いたりはしていない(未だ革命中という考え方もあるだろうが)。社会の変革は我々を真に幸福にすることはないだろう。たとえ20世紀にドラえもんがやってきたとしても。タコピーはそれの象徴であり、我々が抱く社会変革に対する望みをつぶしにきているのではないかと考える。だからこそ鬱っぽくもあり、人々に印象深く残る作品であるのだ。

 みんなが幸せな世界ってあるのだろうか。タコピーはどこかでそれを願っている節があるのだが、そもそも彼も自分の住む星では落ちこぼれか、何かしら問題を抱えており、彼は他のものに比べて不幸であるとも取れるわけだ。人々がみんな平等に幸せになれる可能性は非常に低いと私は考える。容姿や能力、貧富の差、何を撮っても差はつきもので、これらを完全に数値化し、均すことなど不可能だ。全ての人類が平等なのは、皆死ぬという点でしかない。かといって全ての人が幸福であるために全ての人が一斉に死ぬのだろうか。全員がテストを白紙で出せば、全員が0点で、全員が平均点を取れる。理論上は正しいが、このような結果が得られることがないのと一緒だ。

 我々はこの競争社会に囚われ続け、生きなければならないという罪を負っている。誰かが知恵の実を食べたからかもしれないし、そもそも生物というのはそういうものなのかもしれない。これを回避する術は、キュゥべえと契約して社会法則を再構築くらいしかないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?