見出し画像

「プロフェッショナルの根源-野球人 前田祐二の場合-」

=======================
※ご興味をお持ちいただきありがとうございます。
  2020年8月に執筆したものです。
 この記事の執筆の経緯はこちらをご覧ください。
=======================

「伝えたいのは3つ。転職後、気持ちが揺さぶられる日が絶対にくること。5000万円貯めること。いま食べている朝昼晩の食事と、日々の練習メニューをメモしておくことです」

元プロ野球選手の前田祐二氏に、「現役のプロ野球選手に、セカンドキャリアのためのアドバイスをするなら」と尋ねて返ってきた答えだ。

詳細は後述するとして、「前田祐二」と聞いてピンと来た方は、よほどのプロ野球ファンだろう。彼は、2015年までオリックス・バファローズで中継ぎや先発投手として活躍した左腕で、「無名のヒーロー」とでも言うべき稀有な経歴の持ち主だ。
リトルリーグ等の少年野球に属さず、甲子園出場の経験もない。本人は選手としてのキャリアを「コンクリートの端の、端の、端の、隅っこの雑草みたいな生い立ち」と謙遜しながら笑って振り返る。ハウスメーカーでマーケティング等のビジネススキルを身に着け、現在は、福岡市で小中学生対象の野球学校「ジュニアバッティングスクール福岡」を経営する。

日本の「プロ野球」は84年の歴史がある。メディアでの扱われ方は他のスポーツと一線を画す。現役選手は華やかに描かれる一方で、引退後にスポットが当てられることは少ない。むしろ、落ちぶれたかのように表現されることすらある。一つの道で最高峰の舞台に上り詰めた者への敬意は残念ながら感じにくい。プロ野球を一つのキャリアにして今を生きる前田祐二氏に話を聞くと、限られた者しか辿り着けない場所に立った者の強みと理由、親と子の関係、人生を切り開いていくためのヒントが見えてきた。

■一万人に満たない特別なキャリア
 3割は舞台に上がれず去っていく

話に入る前に、プロ野球選手についておさらいしておく。
日本のプロスポーツを代表する職業で、そこを目指して、甲子園常連校に野球留学する高校生、大学野球や社会人野球に進む選手も多い。特別なキャリアを経ても、毎年、プロの門をくぐるのは百名ほどだ。東京大学の入学者数よりも遥かに少ない。統計を見ると、プロ野球が発足した1936年以降、「プロ野球選手」は9193名※1。一軍公式戦に出場記録がある選手は6841名※2というデータもある。
入団したとしても、憧れの舞台に立つことすら叶わずに去る者も多い。トップクラスの選手らは、チーム内の競争に勝ち残るべく日々鍛錬を積み、最先端のスポーツ科学などを駆使して身体能力を高め、技術を磨く。新人が割って入るのは、並大抵のことではない。平均在籍年数は9年※3。引退後すぐは、5割が球団職員に、2割が海外や独立リーグでの現役続行を選び、3割が前田氏のように企業への就職など野球以外の道に進むという※3。

前田氏の場合は、どのようにプロの世界に入り活躍したのだろう。

※1.2019年シーズン終了時。NPB公式Web「プロ野球在籍名簿」の掲載数を集計したもの
※2.「日本のプロ野球記録」2689.web.comから。
※3.東洋経済ONLINE「プロ野球を辞めた男たちを待つ「甘くない現実」」から。

■人生を決めた球場のリアル

「3歳、4歳の僕には、あの打球音や捕球音は衝撃でした」と野球との出会いを語る。前田氏は、かつて近鉄バファローズ(2004年に経営難から球団が消滅)の本拠地があった大阪府藤井寺市出身。
徒歩10分の距離に野球があった。
1986年生まれの彼の幼少期は、仰木マジックで知られる仰木彬監督が近鉄バファローズを率い、全盛を迎えていた。米国・メジャーへの扉を開く前の若かりし野茂英雄投手や、「いてまえ打線」と称される豪快な打棒が魅力の選手が多く在籍。
前田少年は、バットがボールを弾き返す乾いた音、剛球がミットを叩く力強い音、そして大歓声が響き渡る藤井寺球場で、野球のリアルを全身に浴びた。連日兄たちとボールを投げて遊ぶ少年時代を過ごし、中学校の部活動で本格的に野球を始めた。朧気ながらも当前のようにプロ野球選手を夢見ていた。

「野球だけで生きていくことは難しい。勉強していて損はない」と両親と話し合い、推薦を蹴り、公立の富田林高校に進学。野球部に入り硬球を握った。PL高校などの強豪私学や好敵手との対戦を重ね、プロ野球への憧れが、徐々に目標へと姿を変えていった。現役で入った大学を辞め、一年間予備校に通い、大学に入り直したのも「野球で少しでも上を目指したかった」想いの現れだった。

その決断が出会いを引き寄せた。龍谷大学3年生の時、元ヤクルトスワローズの山本樹氏が臨時コーチに就任。彼は、故・野村克也監督のもとでID野球を体現する中継左腕として活躍した人物。日本のプロ野球史上最高峰の投球術を学ぶ機会を得て、プロ野球が明確な進路に変わった。「本気になるのが遅かった」と本人の談。スカウトへのアピール不足から大学卒業時点で夢叶わず、北信越の独立リーグへ。

2009年、奪三振王の成績を残して、ついにオリックス・バファローズからドラフト4位指名を受けてプロ野球選手となった。細見の長身から投げ込むキレのある最速148㎞/hの直球と、カーブ、スライダー、それにスクリュー気味に沈む変化球などを駆使して、一軍で61試合、130イニングを投げ、7勝7敗4ホールド、生涯防御率は2.98を残した。中継ぎや先発ローテーションを任せられる活躍をしたが、左肘の炎症、肩甲骨付近の肉離れなど度重なる故障により2015年に引退した。

■挑戦、準備、感謝。
 自ら手繰り寄せ、つかんだチャンス

プロ野球で培ったものは「挑戦を続けること、準備の大切さ、周りへの感謝」と前田氏。
「一軍に上がっても、エース、ストッパー、セットアッパーと上には上がいる。僕は、最初はワンポイントの中継ぎで使われましたが、自分がずっとやりたかったのは先発です。野茂投手とかを見て育ったのと、独立リーグでも一年間先発で投げ抜き、できる自信もあった。だから、一年目から先発がやりたいって言い続けたんです。何度も何度もコーチに訴えて。なかなか機会は来なかったけど、3年目の春に練習試合で先発を試させてもらえるようになったんです。『やっときた!逃したくない』と必死でした」。

先発として二軍で爪を研ぐ日が続く。
その年の夏、エースの金子千尋投手(現・日本ハムファイターズ)がケガで一時離脱。ローテーションの谷間ができた時に「前田、行ってこい」と声がかかった。「よっしゃ、きたー!って、ドラクエでいえば、スーパーハイテンション。試合が楽しみで仕方なかった」と笑う。巡ってきた一軍での先発の舞台。2012年9月5日のロッテマリーンズ戦に登板し、見事初先発で初勝利をあげる。チームでは、平野佳寿投手(現・シアトル・マリナーズ)以来の快挙だった。さらに9月26日、チームの記録的な12連敗を止める2勝目をあげ、飛躍のきっかけをつかんだ。チャンスが目の前に来た時に、逃さずにつかむ。簡単にできることではない。彼がサラっとやってのけた背景には、前年の選手生命を揺るがす経験があった。

■致命的なイップス。辿り着いた究極のメンタル

前年の2011年シーズン、前田氏は一軍での登板はなく、二軍でも結果を残せなかった。「今から思えば、あれはイップスでした」イップスとは、スポーツ選手の精神的な病で、身体的なケガよりも深刻とされる。例えば、投手ならデッドボールで相手打者にケガを負わせてしまうなどで、責任感から自身も精神的に深いダメージを負い、以前のようにボールを投げられなくなる等の症状がでる。明確な改善法もなく、一度陥ると回復することは容易ではない。

前田投手は、突如、原因不明の不調に見舞われた。
ボールがキャッチャーミットまで届かなかったという。どう投げてもワンバウンドになってしまう。サイドスローに変えるなどの荒療治も行ったが、改善の気配はない。ドラフト上位指名の選手はすぐにクビになることは少ないが、下位指名の者は容赦なく断裁される非情な世界。結果が出ない焦りは、どんどん募っていった。

そして、その年の秋の最終戦、前田投手は「このままの投げ方だと先はない。元に戻してあかんかったら野球を辞めよう」と、試合に臨んだ。

人というのは分からない。その開き直りが奏功したのだ。
「何をしてもダメだったのに、突然、普通に投げられるようになったんです。あ、イップスになっても大丈夫なんやって。その時、パッと開けました」と振り返る。開き直ったら結果が出たという話は聞くが、その理由を前田氏は「9カ月間もがいてもがいて、これでダメだったら仕方がないと納得する所までやりきったからだと思います」と分析。

この経験は今も生きる。
「ミスしないのが一番ですけど、大概のことは、失敗しても死ぬことはない。ミスしても改善したらいいだけです。絶対にやりようはある。試合でも『失敗したらどうしよう』って思わないわけじゃなくて、そう思っても、『ミスしても死なへんな』って上書きする。僕の場合は、『考え込んで不安になったところで、自分のプラスにはならんな』と、どこかで吹っ切れてしまう。『やるだけやったし、やってみな分からんわ』って」と清々しい。

続けて前田氏は、準備の大切さを強調した。
「準備をしっかりしたら、不安も軽減します。まずは毎日の練習に取り組む。練習でできないことが試合でできるはずがないので。今も、できる限りの準備をして臨みます」と力強い。追い込まれた時に人の本性がでるというが、前田氏の場合は、すべてポジティブな方面に針が振れる。
プロをプロたらしめる理由を垣間見た気がした。

■感謝すると強い。

プロで培ったことの3つ目に挙げた周囲への感謝について、前田氏は「世の中、一人ではできないことばかり。野球だとピッチャー一人で試合に勝つことはできない。今も家族や支えてくれる人たちがいるから生きていける。感謝することに早く気付くと、強いと思うんです。だって、感謝すると、人への接し方が変わるでしょ。そうなると、人が自然と寄ってきてくれて、また助けてくれる。感謝している人に悪いことは起きないって思います。極端な話、『なに、勝手に感謝してんねん』とはならないでしょ(笑)
アマチュアの時も、プロ時代も、辞めてからハウスメーカーで働いていた時も、今もそう。周りの方々に助けていただいていることばかり。感謝しかないです」と真っ直ぐに話す。
ヒーローインタビューのお立ち台に上がったことがある前田氏。そういえば、当時も周囲への感謝を口にしていた。

■「考える」ことが成長の近道

スポーツに限らずどんなことでも、周囲のサポートは欠かせない。前田氏の場合はどうだったのだろう。
「うちの親は、今思うと子どもとの接し方が『うまかった』と実感します。勉強も野球も『やれ』とは一度も言われなかったし、『やりたいなら、やったらいいやん』というスタンスでした。言ったら聞かない天邪鬼な僕のことを理解してか(笑)、『練習しろ』とかの変な干渉が一切なかった。でもね、決して無関心ではなかったんですよ。
例えば、僕が出場する試合は、ほぼ全試合見に来てくれていたみたいです。僕に隠れてこっそり。母は、毎日、泥だらけのユニフォームを洗ってくれて、朝も早起きしてお弁当を作ってくれて、全力で応援してくれていました。『見守る』って言葉が一番しっくりきます。
子どもの考えを尊重するって難しいですよね。好きにさせればいいってもんじゃないし。当時からもちろん感謝はしていましたけど、大人になり一層ありがたさを痛感します。プロ野球選手を目指すなんて確約のない道に進むのは、相当不安だったはず」と微笑む。

親と子の関係と成長の相関について、前田氏は営んでいる野球学校での経験を踏まえて教えてくれた。「子どもたちを指導していて見えてくるのは、自分で考える子は伸びるのが目に見えて速い。でも、親御さんが心配して『ああしろ、こうしろ』と命令するように接しておられるご家庭は、子どもが親の顔色をうかがうようになって伸びが遅い気がします。お子さんのことを大事に思われているのはヒシヒシと伝わってくるし、つい答えを言ってしまう気持ちもよく分かります。
考えるようにさせるって難しいですよね。僕の場合は、一度教えたことを次回確認するとか、正しい動作と誤った動きをどちらも体験させて、感覚の違いを持ってもらってから理論的に説明して、その後自分の言葉で話させるようにしたり、子どもの特徴を見ながら伝えるよう工夫をしています」。

野球において「考える」とはどういうことかを尋ねると、「先日、有名な元プロ野球選手が『体格が全然違うのに、みんな同じスイングしているのはおかしい』とテレビで話していて。本当そのとおり。例えば、敏捷性を売りにする小柄な選手が、体格に恵まれたホームランバッターと同じスイングをすると、小柄な選手は手首を痛めてしまうかもしれない。
みんな違って当然です。
コーチから言われたことを自分の中で咀嚼して表現できるかが重要なんです。元プロ野球選手が教える野球教室は日本中にありますが、極論を言うと、プロの動きを100%トレースできれば、全員プロになれるはずですよね。でも、実際はそうはならない。それは、個人ごとに体格も得意なことも異なるから。だから、自分を知り、自分でよく考えることが成長する上で欠かせない。少年野球のコーチをボランティアでされているお父さん方には、子どもたちに一律に同じスイングを強要するようなことは避けてもらいたいです」。

■絶対に気持ちは揺さぶられる。

最後に、現役プロ野球選手に贈る言葉を尋ねると冒頭の言葉だった。
「野球選手でいられる時間は、人生でいえば、ほんの一瞬。僕たちは野球しかやってきていない人がほとんど。だから、引退して1~2年は、人との接し方やパソコンスキル、経済のこととか一般社会で通用するスキルを身に着けるために勉強する時間をとった方がいい。
それと、転職後に、プロ野球時代と目の前の仕事を比べてしまって、気持ちが揺さぶられる日が絶対にくる。2、3回は転職することになると想定するぐらいがいい。例えば、5000万円あれば、スキルを身に着けるために必要な期間を生きていくこともできるし、やりたいことが見つかった時に、起業することもできる」と実感を込めて語ってくれた。

次に「今食べているもの、取り組んでいるメニューを残しておくのは、将来もし指導者になる時に、それが絶対に宝物になるから。僕は、メモを残していなくて後悔していて。ある程度は覚えているけど、忘れてしまっていることもきっとある。一流の投手、選手に教えてもらった技術とか、今の最先端の野球の技術を残しておくと、将来絶対に役に立つ」と続けてくれた。

さらにプロ野球という特殊な環境が、セカンドキャリアの難しさを生んでいるという。「プロ野球の試合は、スリルのような感情と隣り合わせというか、感情の高ぶりがめちゃくちゃに激しい。特に一軍の試合はそれが顕著。数万人という観客が自分に注目する非日常な空間の中で、自分の持てるもの全てを出し切って、取るか取られるかという真剣勝負をする。勝った時の高揚感、負けた時の悔しさは、100かマイナス100かって程に、とにかく気持ちが大きく動くんです。
僕の場合は、プロ野球を辞めてからの前職時代、頭ではわかっていても、目の前の仕事に気持ちが動かなくなって、情熱がかけられなくなった。このままじゃダメだと、気分転換を兼ねて、休日に野球のコーチでもしようかと探していたら、縁があって今の仕事に繋がりました。子どもたちの夢を預かる責任ある仕事だし、家族や従業員を養わないといけないので、投げ出すことはできません。経営のことや教養も含めて色々なことを必死に勉強していかないと」と気を引き締める。

■野球を、もっと自由に。

コロナの自粛期間中にこれからを考える時間がとれたと話す前田氏は、将来を見据えこう締めくくった。「これからは「個」の時代で、きっと野球界にもそういう時代が来る。個人でどんどんアピールできる時代、それが認められる時代になればいいなと思うんです。他のチームに自分を売り込んでいけば、選手の価値があがる。
例えば、強豪校だと、野球に秀でた子が全国から何十人も集まってきます。みんな秀でた能力があるのに、レギュラーで試合に出ることができるのは9人。たとえ光るものをもっていても、アピールする場がないですよね。

僕がいた高校みたいに、甲子園と縁遠くて注目されにくい公立高校とかも一緒です。そこにも、例えば、足が速い、肩が強い、スイングは鋭いけどボールに当たらないとか、キラリと光るものを持っているのに埋もれてしまっている選手がいると思うんです。他にも監督やコーチと合わないなどで試合に出られないこともあると思うし。僕は、どの子も将来が閉ざされることがない時代になってほしいし、彼ら、彼女らの助けになることをしていきたい。2020年8月からは、それを形にする事業を始める予定です。
野球がもっと自由になって、それが世界に広がっていったら、めっちゃ面白い世の中ですよね」と、前田氏は終始笑顔で話してくれた。

プロアスリートなら兼ね備える、自ら考え、一つのことをストイックに追及できる力は、いつの時代も強い。
そのエネルギーに周囲は魅了され、勇気づけられる。

彼らは引退してもなお、ヒーローだ。


↑オンラインで快くインタビューを受けてくれた前田祐二氏。
愛犬のシンバとともに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?