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働き方・自分マーケティング・格差……どこまで「成長」を続ける?

新しいスキルが身についたら、新たな自分に出会えたら、そうして仕事で人に褒められたら、成果が出たら………そりゃあ嬉しいですよね。
でも、そこに天井はあるのでしょうか?
人は、企業は、世界は。どこまで成長すればいいのでしょうか?

こんにちは。編集とデザイナー夫婦の(デザイナー)のほうです。

今回は、仕事をする中で感じた、働き方や社会のあり方への疑問を深掘りしてみました。少し長いですが、なるべくライトに疑問を分析していくつもりなので、ご興味のある方はお付き合いください。
※このnoteの疑問や見解は、誰かの働き方や悩みを解消・解決するものではなく、あくまで私個人の考え方です

自己成長することは、単純に嬉しいことだけど

まず前提として、私はたぶん、仕事が好きです。
仕事を通じて新しいことが出来るようになったり、自己成長を感じられたり、人に評価されることが嫌いではありません。

ひと昔前までは女性が働くこと自体普通ではなかったのだから、そんな日々を送れていることに、先人たちが勝ち取ってきた「権利の意味」や「努力のバトン」のようなものを感じることもあります(この辺はまだまだいろいろな問題や議論があるとは思いますが)。

では自己成長のためだけで働いているかと言えば少し違って、もちろん生活のためでもあるし、ほかにも大事にしたいことはたくさんあります。それでも、仕事上で成長する自分に出会えることは「働く」原動力のひとつだなと思っています。
そして社会の中で、自分をどのように売り出すのか、自分のアイデンティティは何かを追求すること(以下、「自分マーケティング」)は、この資本主義社会では当然、重要だと考えます。

しかし、です。

どこまでいけばいいんだろう?
成長の先にあるものって一体なに?

という疑問が、頭をもたげます。

私と同じように、いやそれ以上にがんばっている人や、家事育児をしながら仕事をする人、成功している人でさえも、ふとそんなことを思ったりはしないでしょうか。

この資本主義社会の中の、「デザイナー」という仕事

私の仕事は、デザイナーです。
デザイナーと言ってもさまざまなジャンルがありますが、おもに本や印刷物、最近ではWeb関係の画像制作にも携わっています。

とくに本・印刷物に関しては出版社・編集プロダクション・フリーランス時代を含めれば、かれこれ15年近く続けています。

一般的に出版系のデザイナーの「成長・成功」する先(目指す先)は、有名な著者の本をデザインしたり、売れる本をデザインしたり……フリーランスであればそれによってギャラが上がり、自分の名前の認知度が上がることだと思われます。

始めたころは、自分も少なからずそういう「成長・成功」を意識していましたし、今もそれは多少あります。また、決してミーハーな意味で「認められたい!」というのではなく、「有名・売れる」というワードは、ビジネスにおいてはそのまま「影響力」に置き換わるということを経験の中で実感しています。

(嘘です。ほんの少しは「あいつは売れるデザインをつくるやつらしい」と言われたいミーハーな心もあります。ほんのちょっとね。)

さて影響力の話。
デザイナーが関わる本で、どんなに「いいこと」「読むべきこと」「考えるべきこと」「正しいこと」が書かれていても、売れなければ、広告しなければ、読んで欲しい人に届かない

だからと言って売れるために作る(デザインする)いやらしさみたいなものは、ただのモノではなく知的財産である「本」という商品において、常にある葛藤だと感じています。

そして仕事として本を作ることに携わっている人々がこんなにもたくさんいる以上、やはりその人たちが食っていくためにお金は回さなくてはいけない。

売れ行きか、良い本か。

これは夫ともよく話し合うテーマですが、話の明確な落としどころは見つかっていません。デザイナー以上に、編集者は考えるところがあるのだと感じています。

デザインという仕事の中の「DTP」

この「本という商品」が抱える中途半端さ・危うさに対するそんな思いが根底にずっとあるので、15年続けるうちに、私というデザイナーの立ち位置は自然とDTP寄りになりました。

DTP(DeskTop Publishing、デスクトップ・パブリッシング)

かつては編集者などが、紙(指定紙)上で誌面のレイアウトやデザインを行いゲラ(原稿)を作っていたが、印刷のデジタル化により分業化され、現在では「DTPオペレーター」や「DTPデザイナー」と呼ばれる専門の職業となった。パソコンの画面(デスクトップ)上でレイアウト・デザインする意。

0→1でデザインを生み出す「デザイナー」に対し、1→10を担う「職人・」オペレーター」のような意味合いで使われることが多い。
レイアウトに特化していたり、本文の視認性を考えたデザインや赤字修正、データの管理など、もう少し機械的な作業や技術的な部分をサポートする役割を担う。

どれくらい「DTP寄り」なのかを可視化してみました。自分の最近の仕事の割合はこんな感じです。※あくまで体感

あれ、DTP出てこないやん……(笑)
ご安心ください。これは単なる出版とWebの仕事の時間的な体感の割合です。現在副業で、フルタイム派遣のマーケティング会社インハウスデザイナーをしている関係で……
あ、失礼。
マーケティング会社にいると、つい横文字が増えるみたいです……「1日8時間勤務の派遣で、物をたくさん売る方法を支援したりお手伝いしたりする会社の社内専属デザイナー」ですね。
1日・週・月・年のほとんどの時間がそっちの仕事に持ってかれています。仕事内容はWeb上にアップする画像や広告の制作などが主です。

そしてこちらをご覧ください。

デザイナーとしてのキャリアをスタートさせてからの出版系の仕事の割合を紐解くと、こんなにDTP寄り

名が売れたり、常に大きな仕事をするような成功例のあるデザイナーとは違い、DTPはとにかくとても地味です。どんな風に地味かと言うと、

▶︎本の奥付にデザイナーの名前は載るが、DTPの人はあんまり載らない
▶︎故に、「実績」と呼べる本があまりない、あっても効果が少ない、新規クライアントに営業しにくい
▶︎ピンキリだが、かかる時間と責任のわりにギャラが少ない
▶︎「売れる・売れない」に直接的に関わるものを作るのがデザイナーの仕事なら、「納期・間違いなどの責任」のしわ寄せの中で、円滑に出版まで漕ぎ着けるところを担うのがDTP(縁の下の力持ち的な役割)

まあつまり目立たないし、目立って何かが激変するようなポジションではない歯車のようなものなのです。
※くどいですが、あくまで個人の見解です

しかしどんなに目立たなくても、自分にとってはDTPの仕事は奥が深く楽しい。飽きっぽい私が15年もこの仕事を続けているのだから、自分の性格と考え方に合った仕事なのかなと思います。

また、クライアントに「ありがとう」と言われたときは、誰かのサポートをできたことを誇りにも思うし、ふと気づいたことに、それこそが私の「仕事の原動力」だなと感じています。

どこに行っても、なぜかサポート役に徹する自分

余談ですが、さっきの図には続きがあります。
こちらです。

派遣の仕事を始めてからWeb系の仕事が増え、毎日仕事が降ってきて(これはフリーランス時代からすると一番ありがたい)、明らかに「デザイン」の仕事も増えた。毎日何かを作り、毎日脳みそはフル回転。自分から「こういうことがしたい」と提案すれば、やってみることができる環境にもなった。

「成長・成功」を求めるには絶好のチャンスです。

それなのに、です。

仕事に慣れてくるうちに、自分のポジションのようなものが自然と出来上がっていくのですが、不思議なもので、気がついたら新天地でも「自分の考えやデザインを表現する」というよりは、デザイン視点で「皆が円滑に仕事できるように環境を整える」、誰かのサポートのような(DTP的な)役割の仕事をしていたのです。

つまり結局、どこで働いても、何の仕事をしても、私自身が自分に向いている仕事を創出してしまっている!

それがどこまで行っても私

そして結果的にそれは私なりの成長であり成功の在り方だと思うように。「有名になる・売れる」ことを純粋に一番の目標にしなくなったのです。

「自分マーケティング」の市場競争からは抜け出したとも言えます。

世の一般的な「成長・成功」とは違って、とても地味ですが、この現象は妙に腹落ちしている今日このごろです。

でも本当にそれだけでいいのだろうか?

私自身が納得しているならそれで良い、と話は終わってしまいそうですが、ここからが本当に感じている疑問です。

ここまでは言ってみれば、
仕事のやりがいは人それぞれであり、少なくとも私は「自分マーケティング」ではないやりがいを見つけたよ!
という話です。

世の中には、業種は変われど私のようなDTP的な仕事はたくさんあると思います。
誰かのサポートをする仕事。
表には出ないけれど、いなければ仕事全体が回らない役割の仕事。
チームや全体のクオリティを上げるために存在する役割の仕事。
傷ついた人を治したり、元気にする仕事。
働く人々が安心して働けるよう、支援をする仕事。

医療従事者はもちろん、保育・介護の仕事、農業や水産業もそうかもしれません。ビルの清掃のおばちゃんやおじちゃんも。私個人の身近な例で言えば、本の制作に携わる「校正・校閲」の仕事もそうです。

DTP的な(サポート役の)それらの仕事のどれもが、ある意味「歯車」です。人によっては「替えがきく」と思っている仕事。大変さやかかる時間・責任のわりに、給料が安い(と言われがちな)仕事です。

かくいう私も、自分には合っていると腹落ちしている仕事だけれど、何かと不平等感を感じることは多く、名刺には頑なに「DTP」ではなく「デザイナー」と書いていて歯がゆい気持ちです。

でも、これらの仕事は、なにも社会の中で「不必要なこと」をやっているわけじゃない。目立たないけれど、むしろ「一般」とは違うフィールドで誇りを持ってやっている人も多いし、そういう役割の人がいてサポートがあるからこそ、別の人が輝く

結局は、全体のバランスでしかないと思うのです。

それなのに、待遇や世間の評価、認知が、あまりにも低くはないか。「低い」という言い方が悲観的で被害者的に聞こえるならば、こう言い換えたらいかがでしょうか。

目立つ仕事やキラキラしたもの、声が大きい人、テレビやメディアに出る人、容姿が綺麗な人、行列ができるお店、「皆が知っている」モノやコトやヒト……そういうものだけに関心やお金や信頼や評価を寄せ過ぎていませんか、と。

格差はなにも、経済だけではない

「一億総中流社会」と謳われた日本も、今では国内の貧困や経済的な格差が問題となっていますが、これは私からすると、決して国や政治だけの問題ではなく、一人ひとりの意識の問題も原因としてあるのかなと考えています。

今はSNSを使って皆が自分の言葉を拡散できる時代。安易に「皆がこれがいいと言っているから」という理由だけで好き嫌いや評価を、モノやコトやヒトに寄せると、時に軽い気持ちや言葉が瞬間的に集まって「バズ」り、場合によっては考え方や歴史が変わる可能性すらある。そこには希望がありますが、しかしまた場合によっては、それによって傷つく人や声が小さくなる人、なにも言わないというだけで存在が薄れていってしまう人、そもそもSNSを使わない人も……そんな風に実は情報の格差がすでにどんどん広がっています。

そしてむしろ情報格差の行く先こそが、経済格差ではないでしょうか。

マーケティングの手法としても最近は、企業がPRとしてテレビや広告で自分たちや商品を発信するのではなく、SNSでファンを作る→話題になる→テレビやメディアで取り上げる→さらに広まる、売れるという構図が定石のようです。

つまりSNSを見ない人、機械を操れない人、究極にはそもそもSNSとかに興味がないから(結果的に)何も言わない人は、どんどん世界を取り巻く「市場」から爪弾きにされ、情報弱者、ひいては消費者・生活者のターゲットにすらされない、必要なものが誰からも提供されない経済弱者になる構図が出来上がってきていく気がします(少し強引な理屈かもしれませんが、あくまでひとつの可能性として)。

私が考える「これからできること」

話が壮大になってしまいましたが、本テーマの疑問点はまさにこれです。

どこまで成長を続けるのか。
成長の先に何があるのか。
 ↓
=格差?

この流れからは、簡単には逃れられないのかもしれません。

情報はこれからもどんどん増えるから、情報過多な中で検索ができる・探すのが苦ではない「特定の人のもの」になるし、そうして成長し、膨れ上がっていく経済は着実に環境を壊していて、もう待ったなしだと言われている。それらを是正するために「SDGs」なんていう目標も世界的に掲げられている。

危機感はここにきて露わになっていますが、でもいまいち皆が「自分ごと化」できていないし、多くの人には、そんな余裕がすでにない……そんな負のスパイラルに陥っているようにも思えます。

そんな中で自分ができることはなんなのかを、自分の仕事や生活を通して考えてみました。

解決策はこれといって見出せていませんが少なくとも、目立つ人だけでなく、皆が皆、必要な役割を持っている(と私は思う)ので、それに気づける自分でありたいなと考えています。また目立つ人も、大いに他人に夢を与える存在であり、必要です。自分の仕事や役割も「大事なんだよ、ありがとう」ともっと言われたいし、そう言われるための努力を引き続きしたいです。

普段から目の前や身近にいる人、あるいは直接の知り合いではないけれど、「自分の知らないところで自分に影響を与えているかもしれないあの人」に思いを馳せることができたら……その人に「ありがとう」と言うだけでも、何かが変わるのではないか

自分にできることはあまりにも小さく、こんなフワリとしたまとめ方しかできませんが、そうして投げた小石が波紋となって広がって、バランスのよい世界になったらいいなあ……そんな甘っちょろいことを、夜な夜な思ったのでした。


※画像を使わせていただきました、ふくりと さん ありがとうございました!


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